「徳は孤ならず」

70歳で世界中を飛び回っている、素敵な女性に会った。
彼女は一生を独身で過ごしている。
が、いつも周りに人々があふれかえっている。
若いころ、結婚しないわが身を周りは憐れんだ。
今となっては、「いいわね」と羨ましがられる。
これはなにも「独身で気楽」だからいいわね、という意味
ではないと、彼女を見ていて感じる。
彼女はひとしきり働いた後、南米の子どもたちのために
学校建設に貢献している。
そのための資金集めに奔走した。そのときの教訓;
金持ちが天国へ行くのは、ラクダが針の穴を通るより難しい
という聖書の言葉を痛感するほど、「生活、大丈夫?」 
と思われる人からの寄付がほとんどだったと。
現在、彼女は天涯孤独である。が、決して心の孤独はない
世界中から彼女を訪ねてくる若者たちで、にぎわっている。
徳は孤ならず 必ず隣あり」論語
徳のある人は孤立することなく、必ずよき協力者にめぐまれる。
まさにこの論語通り生きてらっしゃる、パワフルでユーモアある女性。
彼女に「おばあちゃん」という言葉は死語である。
来年は、3ヶ月かけて船で世界一周するのだと!
そこには奇しくも、20代、40代、60代の独身女性がそろっていた。
これから結婚するしないはともかく、彼女のような晩年を皆が
迎えられるかは、今後の生き方次第である。
家族がいても、孤独死になるケースを目にすると、
生前の「生き様」を考えさせられる。
わたし自身、『』になる種子を、知らず知らずに蒔いているやも
しれぬと、子どものような彼女と接し、わが身を振り返った。

区別という名の『分離』 番外編

過去、なんらかの苦しみを経験すると、そこに
意識が固定されて、身動きとれなくなってしまうもの。
しかし、どんな苦しみも、やがては去っていく。
これは喜びも同じだと。
ただ、苦しみが去る時、その苦痛は悲劇として
あとに永久の印を残し、喜びや栄光は
役に立たない思い出を残す。
つまり、両者に釘付けされていること自体が、
悲劇』と言わざるを得ない。
四季が移り変わるように、すべては
そうあるべき理由をもって過ぎ去っていくだけである。
だから苦痛という悲劇などないし、そこに恐怖を
感じることは、『冬』が来ることを怖れているようなもの。
あるのは、なぜそうなったかわかる部分
理由が理解できないものという『事象』だけである。
わかる部分は永続的な学びにし、不可解なものは
一時的に経験する苦痛であり、理解できるまでその
体験がカタチを変えて繰り返されるだけである。
この両者を区別して捉えていくと理解が深まり、
一時的に体験する苦痛が、徐々に少なくなる。
ということは、恐怖で身動きとれないでいると、
体験も少なく、それだけ人生学校の卒業が
遅くなるということだ。
また恐怖は、避けられないことが始まるまでしか、
続かない。その先は、恐怖の意味は失ってしまう。
なぜなら、それどころではなくなるからだ。
あとは、正しい道を進んでいると言い聞かせるだけだ。
そう、すべてが『正しい』。その魂にとっては。
画像

4ヶ月ぶりにハンク氏のカウンセリングセンターに寄った。
わたしの代わりに出版プロジェクトを積極的に進めて
くれている才女、ニーラとも会った。
ここのキッズたち(患者をこう呼ぶ)は、たいてい親から
受けた傷のトラウマから抜け出せず、苦痛に満ちた人生
送ってきた若者だ。
その苦しみの因が理解できずに、のた打ち回っている。
それをここでは理解につなげ、キッズたちがわかるまで
何度もやり取りを続け、彼らを社会に送り返している。
本来、苦しみなどない、すべて学びがあるだけだ。
しかし、自分で作り上げた苦痛という悲劇は起こる。
だからそのまま受け入れ、その恐怖を小脇に抱え
苦痛を行動に転換し、前に進むしかない。
苦痛をともなう悲劇は、ではなくて『挑戦』であると
わかるまで。
でないと過去の怒りによって、未来の行動が
制限されてしまうから。
ハンク氏は、それをここで教えている。
50%出来上がった本のコンテンツを眺めながら、
次回の渡印時には、本のデザインや販売ルート
についての話ができるといいね、と約束して別れた。

区別という名の『分離』  その7

人が「曖昧さ」を手放せない理由は、『怖れ』からである。
どちらかを選択したとき、その向こうに待っている結果が
もし違っていたら、失敗だったらどうしようという恐怖がある。
その選択できない曖昧さが、進むことへの躊躇につながる。
これは、生きることの中に『喜び』ばかりを見つけている証拠だ。
これでは、陰陽二元で成り立つ宇宙のルール
根底から否定していることになる。
男女、昼夜、上下があるように、苦楽も表裏一体である。
時には失敗したり、恐怖を感じることは、当たり前のことだ。
また「恐怖を感じたらどうしよう」という実態のないモンスター
に怖れをなし、そうなった場合の対処法にまで目がいかない。
この本末転倒の結果、なにもできずその場に留まり、
ただ、時だけが過ぎていく。
では、人生で最大級の恐怖とは、なんであろうか?
    『死』 以外 ない
しかし、心配しなくてもいい。
人の死亡率は100%なのだから、いつか必ず死ぬ。
早いか遅いかの違いだけだ。
「人間、死ぬ気でやればなんでもできる」
「死を乗り越えた人ほど、強い」などと、よく言われるが、
経験者には、どことなく手ごわい相手と対峙し、
落ち着き払った静けさがある。
画像

このシャクティベルには、そんな静寂さが感じられる。
他人とは違う境遇の我が身を恨み、世界から阻害されていると
錯覚していた「分離意識」から、ワララール聖者に意識を
統一したところで、すべてがチェンジした。
最大級の恐怖を超えたのだから、他からの誹謗・中傷や
資金集めに奔走することなど、朝飯前である。
この時点で、彼の分離から統合への道がはじまった。
それは、じごく簡単なことだった。
すべては「つながっている」と理解するだけでよかった。
また、わずかな外的サインを見逃さず、自己の内にある
共通項を認識することでもあった。
その道しるべにしたがって進むと、先が見えてくる。
はじめから遠く先まで見る必要は、ない。
耳を澄ませ、空気を感じ、触覚を鋭敏に
しているだけでよい。
すると身近な机が、電話が、車や石ころたちが、
そっと話しかけてくるようになるのだと。
シャクティベルとわたしの共通項がつながった
その瞬間、土星神が二人を巡り逢わせてくれたように。
光と闇が一体であれば、なぜ失敗を恐れる必要が
あるのか。人の強さは「決意」する力から生まれると、
彼を見ててそう思う。
最後にきっと、ヤマダルマ(閻魔様)が微笑むのは、
シャクティベルのような「分離」を放棄した
潔い魂なのかもしれない。
では、わたしを筆頭とする、肝っ玉の据わっていない魂は
地球タイタニック号に乗りながら、できることはないのか?
そのあらましと対策は、ちょっとここでは書けない・・・
気がつくとナニゴトもなく 夜行列車が目的地に到着していた。
プラットホームを降りると、葬儀を終えて無事火葬が済んだと
日本の家族から知らせが入った。
1年ぶりにブラフマリシ・ヒルの聖者に会った。
「おぉ、よく来たな! 家族は元気か?」
   ちょうど数日前、ひとり 他界しまして・・・
「そうか、単なる自然現象だ。我われもいつかそうなる」
わたしの 『死のレッスン 1』 が、ようやく終わりそうだった。
                                 Fin.

区別という名の『分離』  その6

画像

親の貧しさに負けそうだった子ども時代を過ごし、
自殺を考えるに至った男が、今では他人と一緒の
飯を食べて生活している、ノコムの理事長
シャクティベル氏に再会した。
今回は「身寄りのない高齢者の家」を見せてくれると。
常時30人ほどの高齢者が暮らすその住まいは、
まるで ニワトリ小屋 のようだった。
   ここは、人間の暮らすところではないですね
家畜以下の生活にショックを受け、ガイドに伝えた。
画像

「そうなんだ。ノコムは経済状態が豊かじゃないから
孤児院も老人ホームも、基本はレンタル施設だ。
しかし、誰も身元がわからない輩が集まる施設として
まして、どう汚く使われるかわからない高齢者になんか
貸そうとはしないのさ。
仕方ないから空き地だけ借りて、掘ったて小屋を
建てたというわけ」
いつ出て行ってくれと言われるかわからないからと
すぐ壊せるよう、最低限の材料で作られていた。
ここでも先週、2人の老人が亡くなったと聞かされた。
孤児院では、子どもたちに食事を施すことになっていた。
ここは建物自体を借りてはいるが、大家といつも闘って
いると聞く。決まってシャクティベルは大家に言う。
「いいですよ。他に我われを受け入れてくれるところが
あれば、いつだって出て行きますから

前回とは違うメンバーが加わっていた。
出産直後に夫に先立たれた、身寄りのない母子だった。
貧しかった当時のシャクティベルが、あのとき
命を絶っていたなら、今のノコムは存在していない
とすると、あの老人もこの未亡人も、そして多くの迷える
子どもたちも、とっくに命を失っていたかもしれない。
彼ら/彼女ら、そして子どもたちが直接受けるであろう、
誹謗・中傷、蔑みを、この理事長が盾になり
一手に引き受けている。
「人はなんのために生きるのか」ではなく、
人生になにを期待されて生きていくのか」と
アウシュビッツ収容所ででフランクル氏が気づいたように、
貧しいシャクティベルは、多くを人生から期待されている。
そこには、他人という区別からくる『分離志向』は、ない。
彼からみると、貧しい子どもや高齢者は、すべて過去
自分であり、未来の自分かもしれないと。
果たしてわたしに、親以外の30人もの病気を抱える
高齢者の面倒を看れるだろうか?
自分の子ども以外の、40人もの世話ができるか?
行政はもちろんのこと、周囲からの奇異の目と
非協力的な状況の中、すべての行動を自己責任の
下で行わなければならないなんて、想像を絶する。
   ではなぜ、彼にはできるのか?
それは、『』を覚悟した強みからだろう。
                     つづく

区別という名の『分離』  その5

「お~い、生きているかい?」
日本にいる姪っ子から、メールが入った。
ナニゴトかと思ったら、西ベンガル州での
列車事故が、多くの死者を出ているという。
日本にいる家族は、インドのどこで事故やテロが
あっても、わたしが近くにいると思っている。
東京に出した娘を、都会で犯罪ニュースが流れるたび
心配する、地理のわからぬ田舎の親と一緒だ。
部屋に入れられた朝刊を開くと、クラッシュした
列車が一面トップに載っていた。
日本と違って被害者は、重傷者含め遺体だろうと
普通に掲載されるから、その惨事が痛いほどわかる。
まさに、その日の予定は夜行列車で揺られることになっていた。
いつまで続くことやら、この 『』 のレッスンは。
画像

タイタニックを観て寝付けないとき、なにやら高尚な
意識を感じた。Mr.秘書が有機体と化し、重要な
用事を思い出させてくれたとき、ハッキリした。
「どこにでもサインを送ってるから、見逃すなよ!」
と、天から聴こえてきそうだった。
わたしたちは、もはや地球規模でタイタニック号に
乗っている
かもしれないと、臭いものにした蓋を
そろそろ取らなければなるまい。
腹をくくって、重要な課題に取り組め、と。
これほど、わたしを憂鬱にさせることはない。
曖昧は楽だが、あとでとんでもないしっぺ返しがくると
ちょっと前に、エラそうに言ったのはどこの誰だ!?
インドに着いた直後、立っているヴィシュヌ神に
「問題に立ち向かえる」勇気をもらったじゃないか。
その後 『タイタニック』 を観ることで、明確な課題を
与えられたじゃないか。
多くの『』の場面と触れることで、
「変化」は突然くることを学んだじゃないか。
あとはその因と、今後の対策を考えることではないのか?
こうなった一番の要因は、人が 『分離』 する方向に
動いているからだと、多くの人は言う。
この分離志向が人類を滅亡へと向かわせるのだと。
統合医療から専門医療になることで、
ますます解明されなくなった病気の本質。
核家族化により世代を超えた伝承が薄くなることで
失われつつある、人としての品性。
なによりも、家族が他人と化す時代になっている。
このまま止めどなく進んでいく先は、想像すれば
誰にでもかわることだろう。
                       つづく

区別という名の『分離』  その4

「たった今、親族の一人が他界したので、
             本日の予定はキャンセルだ」
ガイドが先方からの予定変更を伝えてきた。
こんなことが、ここ4日間で2回。
都度、限られたスケジュールでの変更に
アタフタすることになった。
そして、2回目のそのとき、
同時に日本から国際電話が入った。
近しい親族の、他界の知らせだった。
電話の向こうでわたしの家族も日程調整に追われていた。
     なにかが深い意識でつながっている
深い意識=『集合無意識』という概念を、
最初にはっきりさせた、カール・ユングはいう。
意識レベルでは我われは一人ずつが別個の思考や感情を
もつ人間だが、少し掘り下げるとそこには無意識のレベルがある。
そのレベルでは、我われは皆同じ思考を共有しているが
これらの思考や感情は、あたかもそれ自身が生命をもって、
個人の意識の外に独立して存在しているように
見える、と。
この「思考や感情が個人の外にある」という考えは、
なんとも奇妙な感じがするが、テレビで受信している
映像や音声が外にあるのと同じメカニズムだ。
この集合無意識は通常の意識とは次元が違うから、
直線的時間の法則に縛られていない。
だから、過去・現在・未来が、ない。
つまり、そこには『区別』がないのだ。
意識自体も集合無意識で人類、いや、すべてが
つながっているから、区別なし。
それは、ワールドカップを、世界同時に
皆で観ているようなものだと。
地方番組があるように、狭い地域で、グループで、
家族で共有している意識もある。その範囲内で
起こる共通の出来事を『偶然』と呼ぶ。
つまりカレーが食べたいと家に帰ったら、お母さんが
カレーを作って待っていた、という話だ。
画像

予定が一日延びたので、「星の導き」で出会った
孤児院運営のおやじさんに、逢いに行くことにした。
朝一で働いている彼は、わたしたちの突然の
訪問連絡に、小躍りして喜んだ。
途中、インターネット・カフェに寄っていて到着が
遅れると、「今どこだ? 何時に来るのか?」
と、ハイな電話が何度もあった。
ようやく用事を終え、向かっている最中、また電話だ。
   おやじ~ もう、着くから!
しかし、電話の向こうは、やけにシリアスだった。
「たった今、大工が屋根から落ちて重症だ。
助からないかもしれないから、来るのはまたにしてくれ
   ・・・・・・
なんというか、かんというか、こんなわかりやすい
問題集、鈍感なわたしだって容易に解けるし。
またもや突然のキャンセル。
仕方ないから、ホテルで休むことにした。
その夜、延びた用事を済ませた。
終わった瞬間、その家族に次の死者の知らせが入った。
まさにそのすき間に、用事を滑り込ませたというわけだ。
                          つづく

区別という名の『分離』 その3

「マダム(わたしのこと)、昨日 Mr.Kに電話したか?」
ガイドがなにを言っているのか、理解できなかった。
K氏とは、一年以上連絡をとっていないからだ。
どうやら、わたしの携帯から電話を受け取った彼が
うんともすんとも応答のない、不思議な電話の真意を
ガイドを通して問い合わせてきたようだ。
なにを寝ぼけたことを言っているのか。
っと一笑しようとしたが、ピンときた。
    もしかして、また勝手にかけたのか、こ・い・つ!
現地で使用している携帯電話機は、わたしになんの
許可もなく、勝手な行動をとる逸品だ。
しかも、優秀な秘書かと思うほど、ピンポイントの人へ
まさに絶妙なタイミングで!
「渡さなければならないモノがあるから、そのことでしょ? ってさ」
わたし自身すっかり忘れていた用件で、かけた覚えのない
電話を受けたK氏が、折り返し確認の連絡をくれた。
彼には、わたしがインドに来ていることすら知らされてなかったが、
現地携帯からのコールが、『ただいま滞在中』の合図となった。
一瞬、キツネにつままれた気分だったが、ハタと正気にもどり
慌ててPCを開き、彼の言う用件を確認した。
    そうだった・・・
こんな重要な事、彼から連絡されるまで、失念していたとは!
否。 彼だって覚えていたかどうか、はなはだ疑問である。
わたしの優秀な 『Mr. 秘書』 が気を利かせて電話してなかったら、
忘れ去られていたかも知れない。
即、携帯履歴を確認。
確かに「わたしから」かけたことになっている。
こんなことが初めてなら、こいつを 『Mr.秘書』 などとは呼ばない。
前回もそうだった。このとき『彼』は日本にまでコールし、
モノ言わぬ電話から、わたしらしき声が聞こえたと
折り返し相手からメールが入った。それも重要な用件で!
日本の携帯電話機のように折りたたみ式でないので、
バックに入れて持ち歩いていると、どうやら振動で
勝手にかかってしまうのだ。
にしても、登録されてる電話帳やコール履歴から、どうやって
偶然』 にもピンポインでかけられるのか?!
天の戯れとしか思えない。
易経を紐解くと、この世に偶然などないということが、
易の研究家でもある、ユングの「シンクロニシティ」理論でもある。
確かに『』の行動は、今のところ役立っている。
だが、こんなハラハラドキドキは勘弁してほしい。
そんな神業を見せられるたび、封印することにしている。
単にキーロックするだけだが、なんせ渡印時にだけ
使う機能だから、つい使用法を忘れ、都度ビックリさせられる。
人は、意図した行動より、無意識下で起こされた出来事に
人生の真意
を見出すのかもしれない。
この 『無意識で起こされた出来事』 は、通常、『偶然』と呼ばれる。
そして、この『偶然』という衣を着た『天意』が、実に曲者だ。
日本の “てんぷら” は、衣が厚すぎて中味がボケるが、
インドのそれは、中味が半分顔を出して笑っている。
どうやら我われは、独立して生きているわけでなく、
どこかとコンタクトしながら、操られているようである

それは初めてTVを観る縄文時代の住人が、あたかも
四角い箱の中でドラマが展開されているかと勘違いするように、
実際テレビ局からの電波を受信しているのと同様、我われを
取り巻くドラマも、すでにどこかで発信されているというわけだ。
またその電波を受信するのは、なにも本人だけではない。
他人は当然、電話機だって、車や石ころに至るすべての
物体が受容体となって、そのドラマをつくり上げていると。
これらの仕組みは頭でわかっているとはいえ、こうまで
現場で見せつけられたら、否定しようがない。
                         つづく

区別という名の『分離』 その2

ここは、4つのヴィシュヌ神が祀られている。
立っている ヴィシュヌ神
寝ている  ヴィシュヌ神
歩いている ヴィシュヌ神
座っている ヴィシュヌ神

   ・・・・・・
いったい、なにが違うかって?
有名な横たわるヴィシュヌ神は、平和を与え
座っているそれは、よき瞑想を。
歩いているヴィシュヌ神は、正しい道を歩けるよう
立っている姿は、どんな問題にも勇敢に
立ち向かえるように
、とのこと。
神々ともなると、いちいちなんでも区別され、意味付けされると?
これで3千年(寺院建立から)、祝福を与え、民に愛されて
いるのだから、それはそれで、メデタイことなのだろう。
画像

インドに着いてから、わたしがずっと憂鬱なのは、いつもの
クリーンなホテルに泊まれなかったわけでも、毎日
手で洗濯しなくてはならないからでもなかった。
モンスーン期といえども意外に乾燥していて、すぐ乾くから
その点はご機嫌だ。
それより、携帯メールがほんの一瞬しか日に使えないから、
大いにわたしを悩ませるが、『必要なとき』だけ
都合よくつながるので、「いつも使いすぎ」という
サインだと受け取ることにした。
   では、なにが?
いつもはただの置物となっている、ホテルのTVに興味を
持ってしまったところから始まる。
その日は、友人お手製の夕食が宿まで運ばれた。
食している最中、なに気に近くにあったTVをつけてみた。
当然だが、現地語で流れるTVを見ても意味不明だ。
ましてドラマとなると、綺麗な姉ちゃんと兄ちゃんが
真剣に愛を語っていたかと思いきや、突然歌って踊りだす。
そのうち大勢のバックダンサーとともに、
大ミュージカル・ショーと化す始末。
ここで、普通はスイッチを切る。
しかし、、なにを血迷ったか、きっと食事中なにも
することがなかったからか、チャンネルを変えてみた。
洋画だ。言語はもちろん英語である。しかも、字幕つき。
英語なのだから、字幕は当然、現地語だろう。
だがなぜか、英語に対して英語の字幕スーパーときている。
まるで、外人向け聴覚障がい者用みたいだ。
ん? そうだ。ここでのわたしは、言葉のわからぬ
聴覚障がい者同然だ。
聞き取りにくい言語を追わねばならない、ぼやけた映画が、
文字が映りだされる、知的な英語教材に取って替わった。
食事中の暇つぶしにはちょうどいい。
洋画の内容なんて、はじめから興味ない。
どうやら昔の映画のようである。
しかも、前に観たことあるぞ、これ。
「わぁ まるで飛んでいるみたい!」
この、船首で女性が手を広げるシーンでわかった。
そう、『タイタニック』だった。
10年前、友人からDVDを貸りて観たものだ。
確か、仕事しながら眺めてたので、詳細まで覚えて
いないが、大筋はわかる。英語でも問題なし。
結局、明日の準備そっちのけで、最後まで魅入った。
すでに夜の帳が下り、寝る時間となった。
   ・・・・・・ 寝付けない!
なぜか。
『タイタニック』で、人の生死を考えさせられたからか?
   そんなの、いつも考えてるし
今回の渡印は、特別な意味を持って臨んでいる。
その初っ端から、こんな映画を観せられる『ハメ』になった。
字幕が英語でなかったら、さらに以前観た洋画でなかったら、
そもそもTVなんぞにソソノカサレなかったら、いや、食事を
部屋でしなかったら、こんなことにはなっていないぞ。
渡印中は、まわりの無機質なものが、まるで魂でも
吹き込まれたかのように、有機体のごとく干渉してくる
天意を伝えるために、神はどんな手段をも利用してくるつもりか・・・
                              つづく

区別という名の『分離』 その1

「Do you have a laptop? (ノートパソコン 持ってますか?)」
    はい、あります
成田空港のセキュリティチェックにて、検査官の英語の
問いに、日本語で答える わ・た・し。
今年の3月出国したときには、有り得なかったやり取り。
きっと、7月1日に中国人の入国ビザ緩和にともなう中国人の
大量入出国に、本国、日本人との区別がつかないだろうと。
    今回、香港経由だからか?
いや、セキュリティチェックの現場は同時間帯にあらゆる
方面に行く人たちであふれている。
他国でチャイニーズ? と聞かれるのはしかたない。
母国でそう言われるようになった時代がきたことを痛感。
香港経由インドときてるから、当然途中までは多くの
チャイニーズと、一緒だ。
自分が間違われてムッとすれど、こちらだって相手の
言葉を耳にせぬうちは、どちらかわからん始末だ。
インドの田舎で「日本はどこにある?」と聞くと
たいていが「中国大陸の中にある」と答える。
国土も人口もはるかに日本を凌ぐ中国が、
今、まさに迫ってくるようだ。
画像

南インドの空港に着いたのが夜中の2時。
いつものガイドが迎えに来てくれた。
明日からのホテルを予約してくれたかと確認。
「やぁ、友人に頼んであるから大丈夫だ。 念のため確認してみよう」
と、その友人たる人物に電話をかけ始めた。
   え! 何時だと思ってるの? 明日の朝でいいから
わたしの言葉を笑いながら聞き流し、電話し続けるガイド。
当然、相手は出ない。普通、ここで 『寝てる』 とあきらめる。
だが、彼らは『普通』 ではない。出るまで何度もかけ続ける。
これから行く宿のことなら、緊急を要するが、『明日の』話である。
   あ~ぁ 勝手にやってよ・・・
ようやく相手が出たらしい。電話の向こうで
眠そうなのか、迷惑しているのかはわからない。
もっとわからないのは、彼らの時間感覚だ。
無事、宿が押さえられているとわかり、さっそく
早朝行く予定の現場に向かった。
到着したのが4時。普段は7時からオープンする寺院だ。
土曜日なので、もしかしたら他の寺院のように5時頃から
開いているかもしれないと。
しかし、土曜といえど特別ではなく、3時間ほど
待たねばならぬとわかった。
ガイドとドライバーは外で話しながら待つ
つもりのようだ。
「君は、そこでゆっくり休んでいたまえ~」
だと。
蚊と格闘しながらどうやって車中で『ゆっくり』 するのか?
それを見たガイドはおもむろに、誰かに電話をかけている。
「姉が近くに住んでいるから、そこで休もう」
   えぇぇぇえ! 早朝4時に人様の家に訪問ですか?
わたしの言葉は彼らの行動を止めるに不十分ときている。
30分で家に着くと、姉どころか家族総出で起きていた。
今、起きたばかりと言わんばかりの、枕がそのままにされた
寝床(ゴザ一枚敷き)に案内され、「さあ、どうぞ」と。
    だって、彼らはどこに寝るのか?
「大丈夫、皆もう起きたから」
ホントかぁ? わたしに気を使っているのか、
聞いてもちゃんと答えてくれない。
    まぁ いいや とりあえず寝よ
2歳くらいの子どもだけが残された寝床に横たわった。
しかし、ドア一枚隔てた向こうに家族とガイドが大きな声で
話している。これでどうやって『ゆっくり』するのか?
蚊の激襲よりマシだと思って寝ることにした。
深い睡眠に入りかけたと思いきや、次なる激襲に遭った!
わたしを、一緒に寝ている母と勘違いした子どもが
いきなり抱きついてきたのだ!!!!!
姪っ子と添い寝したのは遠い昔のこと。
子どもと寝ることなど慣れていない。もうビックリ。
緊張して、どうしていいのか困った。
真っ暗なのに、いつもの反応と違うと察した子どもは、
『母でない』わたしから飛び退き、隣の部屋に去っていった。
    やれやれ、子どもも いい迷惑だ
朝になり、水道ひとつだけの『風呂場』に案内され
長旅の汚れを洗い流した。
居間には、わたしから逃げ去った子どもが寝ていた。
ん? ガイド(50歳)には姉しかいないはず。
なぜ、2歳の子どもがいるのか?
  
    あれ、何人の兄弟姉妹でしたっけ?
「たっくさんいるから、わからない」
    会話にならん
・・・あ~ そうだ。南インド人は両親の兄弟姉妹の
子どもを皆、兄弟姉妹と呼ぶんだった!
紛らわしい。日本で言う『従兄弟(姉妹)』だ。
わたしだって実の兄弟姉妹なら、朝たたき起こして
協力してもらえるが、さすがに『従兄弟』にはムリ。
中国人と日本人
電話や訪問可能な時間の常識
兄弟と従兄弟の違い
風呂場と、ただの水道場の違い

どこで 『区別』 するかで大きく意味が異なる。
それにはお互いの文化への理解が必要となろう。
これは異なる環境に育った者同士が一緒に暮らす場でも
よくあること。いかに相手を知り、理解し、譲歩できるかだ。
しかし、インド人の常識、非常識の区別は、いつまでたっても
慣れない。まあ本来、人類皆兄弟。区別なんてものは
宇宙開闢以来、ないのかもしれないが。
    へ? 一番非常識なのは、夜中の2時にガイドを
   呼びつけ仕事させる、お・ま・え、日本人ってか。