星の導き その5

国際会議を成功させるには
インド人を黙らせ、日本人を喋らせること

まったくその通り、インド人はよく喋る。
その理由が、今回 少しわかった気がする。
人は共通話題があると、話しが弾むもの。
それは日本でも同じ故郷だったりすると、
初対面でも長年の友に思えてくる。
インド人同士の共通話題は、ズバリ「宗教」。
北インドの友人は、今までインド国中の聖地巡りをしている。
しかし、観光名所であるがヒンドゥー教の聖地ではない
タージマハルには、未だに行ったことがないと。
昔は旅の途中で知り合う人たちは、巡礼者同志だった。
どこの寺院はよかったの、混んでいただのと話題は尽きない。
自身の知る限りを自慢げに話した。それが熱心な信奉者の証拠だと。
まして違う宗派であろう外国人が、自国の宗教ものを
身につけ、参拝に来ているのだから、興味津々なのだろう。
しかして、お喋りより神々が大切なインド人から
話しを中断された、『エルク』とやらが、どうも気になった。
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翌日、インド国内で唯一、ヒンドゥー教の三神(ブラフマ神、
ヴィシュヌ神、シヴァ神)
が一緒に祀られているという
寺院を詣でた。
わたしたちが朝一番だと思っていたら、
5~6人のグループがすでにいた。
すると、ひとりのインド人男性が「また」近寄ってきた。
    
    ・・・今度はいったい、なに?
笑顔で「日本人ですか?」と “日本語” で話しかけてきた。
    はぁ そうですが・・・
そう聞くやいなや、クルッと後ろを振り向き
「○○ちゃ~ん、日本人だよ~」 と、
サリーを着た、しかし日本人らしき女性を呼んできた。
    うわぁ~ どうしてこんなところに日本人がいる?!
お互いそう思った。
聞くところ、ここで結婚式を挙げているのだと。
    いったい誰、の?
そう。日本女性と話しかけてきたインド人の。
友人とおぼしき数人の祝福を受け、厳かな式の最中だった。
インドくんだりまで日本人の親御さんは来れないでしょうが、
新郎であるインド人の親の姿もなかった。
きっとカースト違いの結婚だから、反対なのだろうと。
新郎の友人(インド人)はいるが、新婦の友人(日本人)は
いない。そこに突然、日本人(わたし)が現れた!
こうして見知らぬ「日本人」の「友人」になり切り、
式に参加した。インド人からバチバチ写真を撮られながら。
あとから来たガイドが、なんの騒ぎかと聞いていた。
結婚式だとわかったガイドがわたしに問う。
「日本人の新婦は、インド人と結婚して幸せだと言っているかい?」
あのね~ 日本人は、会ってすぐの人と深い会話はしないのさ。
挨拶程度の日本人たちをよそに、まったく人間関係のない
ガイドはその人たちと意気投合し、電話番号まで教えあっていた。
     この国際色の違いは、いったい・・・
ある年配男性とガイドが話しをしているとき。
どこから来た何兵衛と名乗った途端、男性の顔色が変わった。
「もしかして、○○オフィスにいた方ですか? わたし、△△です」
次は、ガイドの顔が変化した。
なんと、彼らは5年前に別々のオフィスではあったが翻訳者仲間だった。
お互い一度も顔を合わせたことはなく、電話だけの間柄だったと。
関係ないと思っていたガイドの「友人」再会が、日本人のでなされた。
途端、二人は形式ばった会話でなく、座って話し込むことに。
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現況、家族、当時の人たちのこと、話題は尽きない。
幸い両者とも英語が達者なので、わたしに理解できる
言語で話してくれた。そして年配男がポロリと
「実はわたし、孤児院を運営しているんだよ」
   !!!
さらりと流れたその会話から、別の話題に移ろうとした
瞬間、わたしが言葉を遮ったのは言うまでもない。
このときほど、インド人のお喋りが役立ったことは、ない。
                         つづく・・・

星の導き その4

邪眼から身を守る紐を、右手に巻いてみた。
たいていインド人が手に巻いている魔よけは
赤・オレンジ・黒の紐が多い。
しかし、これはある植物の幹(茎)から採れた繊維である。
色もベージュで目立たない。北インドは赤く染めるという。
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Erukku(エルク)と呼ばれるホーリーな植物なのだと。
といっても大きく育ったその植物は、どうみても樹木
にしか見えない。
太陽神の寺院を詣でたとき、この紐を購入した。
寺院周辺には樹木と化したエルクが立ち並んでいる。
何十回と参拝に来ている寺院で、この植物の話題になった
のは、今回が初めて。ましてや魔よけ紐も、待って
ましたかのように、売人が棚の奥から出してきた。
もともと古代の人びとがキラキラ光る宝石を身に
着けていた目的は、「邪眼」を避けるためであった。
このエルクから作った紐がなぜ魔よけなのか。
この葉から出るミルクは、毒にも薬にもなるのだと。
そういう類のモノは、だいたい神が創ったものとでも
いうのであろうか。
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太陽神の寺院スーリヤナコイルには、9つの惑星神が
祀られている。ここに詣でると、太陽神のみならず
9惑星ナヴァグラハ神が祝福を与えてくれる。
むかしむかし、Karava Maharishi(カラヴァ・マハリシ)
という聖者が深い瞑想に入った。
すると将来の自分が、レプラシー(らい病)に罹り、
手足がもげ、哀れな生き様になることを知った。
聖者たるもの、他のどんな障害でも耐えられるが、
みじめなレプラシーだけは、避けたいと。
そこで聖者は、その願いをナヴァグラハ神に祈った。
すぐさま神々はその祈りを聞き入れてくれた。
その瞬間、シヴァ神からお咎めが・・・
なぜわたし(シヴァ神)の許可なしに、そのような
勝手な真似をするのかね? わたしは彼が今生を最後に
救済されるために、この試練を与えたのだぞ

なのに、お前たちは聖者の業の清算を遅らせた
これで彼は、来世もまた生まれ変わらなければなるまい」
さらに、この行為をなしたナヴァグラハ神自身が
レプラシーに罹ることが運命付けられてしまった。
「うわぁ~ シヴァ神様。そうとは知らずに大変な
ことをしでかしました。どうかお許しください。
われわれ神々がレプラシーなんぞになることを、
どうして信奉者が受け止められましょうか。
お願いですから、なんとか助けてください」
そこでシヴァ神は、神々に指示した。
各々がエルクの下に座りなさいと。
場所は、天の惑星配置どおりに。
そして今後、スーリヤナコイルを参拝する
どの信奉者にも、祝福を与え続けるようにと。
そして、カラヴァ・マハリシ自身もレプラシーに代わる
他の試練を与えられ、その生、救済されたと。
ナヴァグラハ神は、今でもスーリヤナコイルで
お勤めし続けている。
このように、祝福は皆と分かち合い、障害は自分自身を
磨くものととらえると、人の痛みを安易に取り除くことが、
決してよいことだとは言えまい

また、その線引きが重要であり、悩みどころでもある。
わたしはこう考えることにしている。
やるだけのコト(人助けも)をして進まなかったら、
それが天意。くるくると進むコトも、また天意と。
すべてを甘受し、ジタバタしないこと。
ナヴァグラハ孤児院を設立した彼の生い立ち自体、天意であり、
それゆえの孤児院設立も、天意だったということだろう。
その数日後、別の聖地を巡っていたら、参拝者がわたしの
右手に巻いているエルクをみて問うた。
「なぜそれを着けているのかね?」
      邪眼除けです
「どうしてそんなことを日本人の君が知っているのかね?
ではそのエルクの神話も知っているのか?
エルクの根っこは決して北方向以外には伸びないんだ。
なぜかわかるか? それは・・・」
参拝儀式が始まったところで会話が中断されてしまった。
                           つづく・・・

星の導き その3

Vallalar Ramalinga Swamigal in Vadalur
ワララール・ラーマリンガ・スワミガル in ワダルール
彼が信奉する聖者。
貧しい人びとに常に食事を施していた、冒頭の写真像の方だ。
孤児院を営む彼の生き方を根底から変えた偉大なスワミと
同じ方法で救貧活動をしようと、まず聖者の銅像を
ケア・ホームの中心に置いた。
スワミがしていた「いつ、いかなる時に誰が訪れても食事の
用意ができるように
」と、カマドから火を絶やさなかった
その方法で、彼の施設のカマドにも赤く燃えた炭が置かれていた。
少し前まで生存されていたこのスワミは、デーパム(灯明)を
灯すとき、ギー(もしくは油)ではなく、水を注いでいたと!
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   火(食事)を他に施していたから、たとえ水でも
   火が灯った(授かった)のだと。
 納得。
ここに連れてこられた子どもたちの生い立ちは、どれも厳しい。
結婚前に赤ちゃんが出来てしまい、遠くの町から
子を産み落としに来る母から生まれた子どもたち。
両親ともに再婚し、置き去りにされた子どもたち。
上記のケースや貧困や病気、親の虐待などは日本の
児童福祉施設でもよく聞く話である。しかし、
スマトラ沖の津波で両親を失った子どもたち。
他の孤児院に預けられたが、そこは寄付金だけ集め、
子どもたちに一週間も食事を与えず、しまいには
持ち逃げすると。そこに残された子どもたち。
里親になるからと子どもを引き取り、手足を折られ、
目をくり貫かれ、障がい者に仕立てられて
から
稼ぎに出される子どもたち。
どれも日本では聞かない話しだ。
「子どもたち」としたのは、たいてい兄弟姉妹で
引き取られるケースが少なくないから。
この施設のスタッフといえば、彼と奥さん他、たった一人
の使用人で、40人の衣食住を看ている。
日本の児童福祉施設では8人の子どもにつき1人の世話人
が用意されると聞く。普通の家庭はせいぜい子どもが
1人か2人だ。多くても今の時代4人であろう。
それでも忙しいお母さんの愛情不足による問題が
後を絶たない。
それを3人で40人の子どもたちを看ている。
いやはや、ギリギリの運営だろうと想像する。
英語のパンフレットを常に持参していた彼と寺院で
会ったとき、その内容からしてよく外国支援者の
ことを熟知しているなと感じた。
普通このような小さな施設で、英語パンフを用意し、
PCを備えメールのやり取りができるところは少ない。
まして、プロジェクト内容も外国支援者が希望するような、
子どもサポート・シムテムまで記載されていた。
しかし6年経つ現実は、外国の支援者はわたしが初めてで、
スポンサー制度を開始するのも、初めてなのだと。
まして、インド独特のFCRA(外国からの寄付金送金許可制度)
も半年前に申請したばかりだ。→ 許可までに3年かかる
これでは外国からの寄付は望めない。
今までは地域住人からの支援金だけで賄ってきた。
しかし、多くはフリーミールは施すが、
その他、雑貨品までの寄付はされないと。
教育を十分受けていない彼は、英語を話せも読めもしない。
しかし、パンフにはしっかりメールアドレスが記載されていた。
聞くと、以前は英語を使う友人が手伝ってくれた
そうだが、今は忙しくてできないとのこと。
すぐさま、うちの英語ガイドに助っ人を申し出ていた。
    ますます応援したくなった。
彼の「子どもたちを助けたい」という真摯な想いは、
学歴や知識、国境をも越える、とてつもないパワー
もたらすと。
なぜ、あのとき彼が土星寺院にいたのか聞いてみた。
ファンド・レイジング(支援金集め)のため、ある企業を
尋ねたが、目的の人物は不在だったと。
資金がショートしていて困った彼は、土星神に祈りを
捧げることにした。
言わずもがな、土星=障害を表す。
「どうかこの難関を乗り越えられますように」 と。
その直後、新しい寄付先に想いをはせていたわたしが現れた!
彼にとっては、まさに土星神の祝福だった。
間髪入れずにパンフレットを笑顔で渡しにきた。
そして、立ち止まらず消え去った。
確信していたのか。
営業せずともつながると・・・
思い通りの施設パンフを受け取ったわたしも、
土星の導きだと感じた。即、彼とコンタクトを取り、
このように視察へと向かった。
よくわかってないのは、通訳ガイドだ。
行く途中、こちらの状況を説明しておいた。
「あの土星神は、障害をすぐさま取り除いてくれるので有名だからね」
と、嬉しそうだった。
ナヴァグラハ(9つの惑星)孤児院と命名するくらいだから、
彼も今まで惑星神に多くを助けられたことであろう。
するとガイドが、
「今でこそ信奉されているナヴァグラハ神だが、
            一時は大変だったんだから~」
   ん~ 神々が大変?
いつものように、奥深い神話を聞かせてくれた。
                          つづく・・・

星の導き その2

「わたしは自殺を考えていて、場所を選ぶためと
最後のご挨拶に、ある聖者のアシュラムを訪ねたんだ」
これが彼の孤児院ストーリーのはじまりだ。
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この3月、40歳を迎える孤独だった男の6年前
若干34歳のときのこと。
彼の幼少期、父親が毒蛇に噛まれたことで働くことが
できず、子どもに十分な教育を受けさせられなかったと。
教育を受けていない彼は、仕事もうまくいかなかった。
30歳すぎたが独身で、すべてが空しかった。
まるで麻薬中毒患者のように、毎日 『死ぬこと
ばかりを貪った。
そしてアシュラムに座し、最後の瞑(迷)想にふけった。
すると、どこからともなく、
「死ぬほど身を捨てられるのなら、なぜその身体を他のため
に捨てよう
(役に立とう)と思わないのか?」

という、聖者の言葉が聴こえてきた。
     瞬間 意識がチャンジした
そうだ。自分も父親の不健康のために大変な思いをしてきた。
自分と同じ境遇の子どもに同じ思いはさせたくない。
であれば、その子たちのためのケア・ホームを興そうと。
その後、人が変わったように目的意識をもち、人伝えで
危険にさらされている、または親のいない子どもを集めた。
その間、2人の子どもを抱えた夫のない女性と出会い
結婚もした。その女性との間にひとりの子を儲け、
3人の子どもと孤児たち合計40人を一緒に育てている
その施設名は、
NAVAGRAHA ORPHANAGE CARE HOME(略してNOCOME)
ナヴァグラハ・オッファネッジ・ケア・ホーム
   わ~お! これぞ 星の導きだ。
9つの惑星 孤児院」 という意味。
ノコムとは タミール語で「目的」。
NAVAGRAHAという名を聞いただけで、即 気に入った。
仕事を終え、その足で夜8時に施設を尋ねた。
40人の子どもたちが、眠そうな目で待っていた。
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それぞれの子どもの生い立ちを聞くにつれ、さらなる
インドの闇を知ることになった。
まるであの、アカデミー賞を受賞したインド映画
「スラムドッグ$ミリオネア」現実版を聞いているようだった。
                        つづく・・・

星の導き その1

「で、新しい支援先 見つかったの?」
汗だくで南インドの聖地を駆け巡っているとき、
ギビング・ハンズ経理の姉からメールが入った。
     あぁぁ~ 今 それどころじゃないのに
渡印してから何度も受けている催促メール。
お金のことを心配するのが経理の仕事なので、
その気持ちもわからないではないが・・・
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          ワララール・ラーマリンガ・スワミガル     
ちょうど今月で丸3年になるギビング・ハンズ。
リーマンショックを受けた昨年度の日本経済は、
各家庭にも甚大な影響を及ぼした。
にもかかわらず、GH支援者の多くは、昨年度も
支援継続を選択してくれた。なかには支援を一時的に
他の方に代わって継続してくれた方もいた。
貧困層はもっと大変でしょうから」と。
以前、カレーハウスCoCo壱番屋が、まだ小さな喫茶店を
営んでいるとき、資金繰りが滞り100万円の公的資金援助を
受けたときの話しを思い出す。当時のオーナーは、借入金
100万円の内、70万円を資金繰りに充てたと。
で、残りの30万円を将来の資金としてプールしておいたか
というと、否。
残りは地域の福祉施設に全額寄付されたのだと。
その後、周知のとおり全国展開のCoCo壱番屋になったと聞く。
さすが、ココいちばん 大変なときの人助けだ。
支援くださる皆さんが、すでに生活の一部として、
ー たとえ、世界的な経済ダメージで減収になろうとも ー 
世界の子どもたちのサポートに取り組んでくださっている以上、
本体であるGHが、さらなるサポートを拡張するのは当たり前だと。
新年度を迎える3月の渡印時では、新しい支援先を探し、
プロジェクト拡大を目的とした。
しかし、まだチャリティー活動だけでは運転資金がまかなえない
小さな組織ゆえ、仕事も同時進行させねばならない。
その合間をぬっての支援先探しは、決して容易ではない。
日本での支援金集めより、数倍大変なのが現地での支援先探し
である。なぜなら、信頼に値する施設を見つけることは、鉱山から
ダイヤモンドを探し出すようなもの

以前はそれ専門(現地NGO)の方とパートナーを組んだこともある。
デリーにあるJAICA(日本の公的国際支援組織)を頼ろうとした
こともある。
専門職のJAICAでさえ、「インドでの信頼できるNGOは、
自分で探してください」とのこと。なかなかコトが進まない。
渡印直後、北インド・スタッフにその旨を伝え、新しい
支援先を探すよう指示しておいた。その後、南に下って
仕事に没頭している最中のメールだった。
ひとまず意識がチャリティーに引き戻され、とりあえず、
進行状況をスタッフに確認してみた。
     まだ、探している最中。
まぁ そう簡単にはいかないだろう。
その後、土星の寺院を詣でた。
いつになく静かだ。人もまばらである。
土星神の前で、しばし「そのコト」に考えふけっていた。
すると、どこからともなくひとりのインド人男性が、
ガイドに近寄り、なにかの紙を渡していた。
外人を見たときの、いつもの寺院寄付依頼だろうと。
ただ、普通は立ち止まり「営業」トークがはじまるのだが、
華麗に彼は去っていった。
何も言わずにガイドが読んでいるその紙から、orphanage
(孤児院)
という文字が見えた。
     なに、そのパンフレット?
「今の男が、君に渡してくれと置いていったものさ」
     だ・か・ら、なんの?
聞くより読むほうが早い。
!!!!!
まさに、わたしが探していた理想的な支援施設のものだった。
探さなくとも、向こうからやってきた。
すぐガイドに、その男性を探すよう伝えた。
幸い寺院は閑散としていたので、
彼を見つけるのは、たやすかった。
                              つづく・・・

往生際が悪い

わたしのもっとも嫌いな日。
それはインド出張前日。
これが年一回だったり、観光であればなんの問題もない。
十分な準備期間があるし、そもそも観光に準備などいらない。
しかし、仕事であること、3ヶ月に一回であることが、
わたしに苦悩をもたらす。
年に数回、「往生際が悪い」自分と付き合わなければならない。
とかくよく言われる「直前にならないと行動しない」習性は、
なにもわたしだけではあるまい。
国際開発等を仕事にしている方のように、いつもどこかしらの
国へ出かけているならともかく、インドから帰国しホッと一息
ついて日本に染まった頃にまた、別世界に連れ出される。
インドという国はわたしにとって、まさに別次元である。
価値観のまるで違う、敢えていうなら『黄泉の国』、だと。
準備しなくてはならない出発前のわたしは、普段から
観る習慣のないTVの前に入り浸る。少し仕事をしては
休憩ばかり、取りたがる。
つまり、準備したくないのと、行く前にやらなければ
ならない仕事がかたずいていない錯綜から、わたしを
自然と「逃げ」行動に走らせる。
これは、人間の取るある行動に似ている。
     そう。 『死』 を直前にしたとき・・・
死ぬときに後悔すること25」の本にあるように、人は
「やらなければならなかったこと」を後悔し、やったことに
対する後悔は少ない。
人は新年を迎える直前、「今年やっておけばよかったこと」
を振り返る。しかし、何ごともなかったかのように、新しい年
ははじまる。
節目、節目に一瞬「後悔と決意」が入り混じるが、ここを
やり過ごすと、また習慣化した日常が流れていく。
きっと、前後の世界に違和感がないからだろう。
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とうとう逃れられない前日、もの凄い勢いで出張準備がなされ、
机に溜まっていた書類の山が、ミゴトに整理されていく。
数週間ほったらかしの書類が、わずか数時間でキレイに
なる様をみて、なんでもっと早くやらないのか、と後悔。
       それが人間の性であろう。
わずか数週間の出張だが、わたしにとっては次元を超えた
貴重な期間であることに疑いはない。
その理由は、帰国後、毎回経験する記憶喪失が物語る。
まるで過去世からこの世に舞い戻ってきたときのように、だ。
ここインドの3月は初夏。昼間は汗がにじみ出る。
明日からは、まだ肌寒いネパールへと向かう。

旅 日記

    「旅をしない音楽家は不幸だ」
                  By モーツァルト
ごもっとも。
旅ほど感性を高め、人間性を豊かにしてくれるものはない。
なぜなら、モノゴトの基準という範囲が広がるから。
今まで見えなかったことも見え、なによりも
「許せる」 度合いがぐ~んと高まる。
人の感覚に善悪はない。痛い、熱い、涼しい、不味いという五感も
怒り、悲しみ、驚きなどの思考も、すべてある基準で判断されている。
その基準は自分が勝手に作り上げたもの。
「普通は」 という基準も本来、ない。
しかし、自分にとっての基準内にいると、どうしても
その範囲でしか思考しなくなる。
すると、その範囲外のヒト、モノ、コトを見ると脳が混乱しはじめる。
「それはわたしの許容範囲外でございます」と赤信号が点滅する。
それが、怒り、悲しみ、無視、攻撃というカタチで表現されると。
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ある夜。
ところはデリー、インディラ・ガンディー国際空港。
日本に向けて帰るべく、チェックインを済ませ
搭乗できる時間まで待機していた。
すると、フライトが3時間遅れるとアナウンス。
遅延はいつものことだった。
が、予定時刻を過ぎても搭乗案内がない。
日本行きなので、当時は日本人だらけだ。→ 今はインド人だらけ。
夜中の1時にようやく日本人集団が動き出した。
やっと飛ぶのか? と思いきや、いつもの搭乗口とは
反対側に集団は進み始めた。
アナウンスを聞き逃したわたしは日本人に尋ねた。
「今晩は飛ばないそうで、市内のホテルに移動ですよ」
・・・
エア・インディアのテクニカルトラブルだと。
チェックイン済みの搭乗予定者は、手荷物のみの軽装だ。
着替えなど身の回り品なしで、ホテルに缶詰状態に。
ホテルから案内された無料国際電話は、3分以内1本。
帰国翌日から仕事の予定を入れていたわたしは、当然1本の
電話では済まされない。ホテルにそれを伝えた。
「エア・インディアへ直接交渉ください」と。
ホテルの一室を事務所にしていたエア・インディアに
連絡し、規定以上の許可をもらった。
待つこと36時間。やっと夜中の2時にフライト案内が届いた。
宿泊代、食事はフリーだが、それ以外は精算くださいと。
当然許可をもらっているわたしは、電話代の精算はせず
空港行きのバスを待っていた。
そこに一枚の請求書が差し出された。
わたしがかけた国際電話代すべての。
       は? なぜ払うの? 
       エア・インディアから許可をもらったが。
そんなことは聞いていない、とホテル側の一点張り。
とにかく支払えと。
すると、同じ電話代を請求されているフランス人が、
ホテル側と言い争っていた。
支払い窓口には、超過電話代を払う日本人が列をなしていた。
この方々は単に許可を得ず、1本もしくは3分以上の電話を
したことによる支払いなのか、許可をとったが請求されたので
しかたなく払っているのかは定かでなかった。
とにかく交渉しているのは、わたしとそのパリ・ジェンヌのみだった。
彼女は、許可をもらったスタッフ名まで控えていた。
ホテル側ではらちが明かず、エア・インディアの臨時オフィス
で交渉することに。
「当直のスタッフが勝手に許可しただけで、会社側は知らない」
と、平気でのたまう エア・インディア。
当然2人はブチ切れた。
このパリ・ジェンヌ。齢(よわい)30のかわいい女性だ。
とはいえ、職業はサイコセラピスト(心理療法士)。
フランスなまりの英語で「人としてどうなの!?」
まくし立てていた。
横で見ていた日本語達者なインド人が、
「君たちのお国からみたら、タカが知れてる金額だろう~」
そんなに目くじら立てるな、と。確かに彼女の超過額は、
日本円にして数百円、わたしとて数千円だ。
これはお金の問題ではない。社会的な問題であり、
インド自体の問題でもある。
話しはまったくの平行線。どっちも譲らない。
しかたなく空港にあるエア・インディアに直接交渉
するためホテルを出ることにした。
次は電話代を徴収できないホテル側が立ちはだかる。
2メートルはあろう、ガードマンたちが、わたしと彼女を
羽交い絞めにした。
それを眺めていた、バスに乗れず待ちぼうけを
くらっていた日本人がひと言。
「エア・インディアは国の会社だよ。言うこと聞かない場合
下手すると逮捕されちゃうよ」
    周囲に迷惑かけないでよ~ 
    いいかげん妥協しろよ~
とでも言わんばかりの典型的日本人発想だ。
そんな言葉は完全無視。ただ、フライト時間をこれ以上
遅らせるわけにはいかず、ホテル側の要求を一旦呑むことに。
電話代は払うが、この状況をホテル側として一筆記し、
関わったスタッフすべての署名をもらうことを条件に。
この一筆を持って再度会社と交渉するべく、空港に向かった。
しかして結果は、同じだった。
結局わたしたちの激しい交渉を見ていたホテル側は、フランス人の
電話代はチャラに、わたしの電話代も端数は切り捨ててくれたので、
この交渉は、わたしの分だけとなった。
空港での会社側のあまりにひどい対応に、話をする気もなくなった。
     こんなものだよ、インドは。
     まぁ わたしも電話 使いすぎたしね。
妥協したくなかったが、やるだけのことはしたので諦めることにした。
     し・か・し 諦めないのがパリ・ジェンヌ。
「いい! 日本に帰ったら大使館にこのことを連絡するのよ!
わたしはパリに帰ったら訴えるわ。そして帰りのエア・インディアは
キャンセルする。二度とこのキャリアは使用しないから」
代金がチャラになった彼女は、今や当事者ではない。
しかし、もはやお金の問題ではなくなった。
わたし以上に強い姿勢で臨む彼女の姿は、お国柄か、職業柄か、
単に性格なのかはわからないが、わたしの生き方に刺激を与えた。
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ここまでのストーリーを交流分析(TA)風に照らし合わせると
PC(規範的な親)     :エア・インディア→ この場合、間違った権力者
NP(やさしい親)      :日本語達者なインド人
A (大人)           :ちょっと妥協した わたし
FC(自由奔放な子ども):パリ・ジェンヌ
AC(従順な子ども)   :一緒に搭乗する日本人
確かにACでいれば、長いものに巻かれていれば、
安全だし、コトもスムーズに運ぶだろう。
しかし、その妥協に弊害がなければいいが、長期にわたって
自己にウソをつくことで、本当に自分のしたいことがわからなくなる
自由奔放な子どもタイプであるFC的生き方は、一時的な摩擦は
あるにせよ、自己に忠実、真っ直ぐな生き方ができる。
そこには自分に対するストレスは、少ない。
だから、自分が好きになる。
その願望が最近のTVドラマ(「曲げない女」「まっすぐな男」)
になっているのか・・・
パリ・ジェンヌと空港で別れたすぐ後、エア・インディア
日本支社に電話を入れてみた。
「その状況を文章で送ってください。本社に交渉します」と、好対応。
結果、ホテルに払った電話代全額は、日本支社から即、振り込まれた。
想像通りの日本的対応である。AC的な日本人から言わせれば、
「だから一旦妥協したしたフリをして、日本側で交渉すればよかったんだよ」
となろうが、インド側にまず交渉することに意義があった。
彼らの状況から察すると、勝手に許可したスタッフは、電話代
を給料から差し引かれないよう、「言った覚えがない」と
言いはるしかなかったのかもしれない。
しかし、その方法は、今後は通じないよと。
返金されたお金は、そのままインドの孤児院に寄付することにした。
この、国際色豊かな一連の出来事は、わたしたちを取り巻く
日本国内でも、頻繁に起こり得ること。
そのとき自分の基準で判断する前に、日本といえど多国籍人種の
集まり(思考は)
だというフィルターを通して考える。
すると、対応が柔軟になるだろうから。
これらもまた、旅のもたらすドラマであり、学びである。
その一年後、パリ・ジェンヌから一枚の写真が届いた。
彼女のかわいい赤ちゃんと一緒の・・・

女児殺し

「インドで、2009年生まれの子どものスポンサーできますか?」
昨年のこと。
若いお母さんからの問い合わせだった。
なんでも独身時代、インドに渡り見てきた光景である
貧富の差が、あまりにもショッキングだったそう。
その方は昨年、自身の子どもを儲けたとき、同い年のインド
の子どもを一緒に育てたいと思ったそう。
ギビング・ハンズで取り組んでいる支援は主に子どもの教育である。
インドでは2歳頃から義務教育がはじまる。
となると生まれたての赤ちゃん対象者は少ない。
孤児院に連れてこられる子どもも、たいていは歩くように
なってからである。
そこで、南北に住む複数の知人を介して、支援を
必要とする0歳児を探してみることにした。
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その赤ちゃんは、南インドの片田舎に住んでいた。
以下、南インド人からの報告;
人里離れた村に大変貧しい2009年生まれの女の子がいましたので、
その女の子と母親と住んでいる家の写真をお送りします。
その子の父親はエルマライという名で、仕立屋で日払いの仕事を
していますが、そこでの僅かな賃金では妻子を養えないので、
義理の父親の家に妻と子どもを預けています。
その家も大変貧しく、農作業の下請けをして暮らしています。
子どもの名前はリシュターといい、母親の名はカヤルヴィジーといいます。
彼らは貴女の支援を受けるに相応しい人たちです。

インドでは、地域によっては、住民の大部分が女児の誕生を
呪いであると考えています。花嫁持参金のしきたり(ダウリ)が、
両親に様々な問題や精神的ストレスを与えているのです。
タミル・ナドゥ州では、集落に住む人びとは、女児を生まれ
落ちると同時に殺してしまいます。(2,3度)続けて女児を
出産しようものなら、その女性は夫や夫の家族からさえも
辱めや虐待を受け、誰からも顧みられなくなります。
貧困と無学がそのような悲劇を生みだしているのです。
もし医者が、妊娠している母親に女の子どもを宿していると
告げたなら、母親は即座に中絶を請うでしょう。
そのような堕胎を避けるために、政府は医師に対して通達を出し、
出産するまで透視の結果を明かさないように命じています。
それでも、いまだに法の目をかいくぐった女児殺しが後を絶ちません。
法律は男女平等を謳っていますが、そのような権利は実質的には
ないも同然で、女の子どもは学校に行かせてもらうこともできず、
日々多くの問題や悲しみを経験しています。

これがインドの田舎の現実。
北インドの友人からは、デリーにある捨て子専用の施設
 Delji Council for Child Welfare の紹介を受けた。
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ここには「PALNA(ゆりかご)」と呼ばれる赤ちゃんポストが道路沿いに設置されている。
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このゆりかごに置き去りにされる90%は女児である。
残りは男女の障がい児だ。
健康な女児のほとんどは、施設の取り計らいでインド国内と
ヨーロッパの国々へ里子として送りだされる。
残される幼児は、障がいをもつ子だけ・・・
この現実を知り、たまたま日本に女性として生まれたものとして、
放っておくことはできない。
上記の若き母親のように、自分の子どもに遠く離れた異国で
同い年の兄弟姉妹がいることを、身をもって教えていく
姿勢こそが、今後の生きた教育なのかもしれない。