静かなる自己主張

ブエノスアイレスで知人と食事。
    ねぇ そこのお塩、取ってくれる?
「ポルケ(なんで)?」
    サラダにかけたいから
「シ(わかった)~!」
アルゼンチン人は、何をするのも「ポルケ?」と聞く。
だからなにか頼むとき、いちいち理由を伝えないと
コトは進まない。
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もともと日本語というものは、文法的にさまざまな
モノが欠如しても通じることになっている。
だからか、目的だけ伝えることに慣れている。
たとえば。
「あなた 何?」
「ボク うなぎ」
「わたしは ブリ」

確かにこれを聞いた誰もがビックリする。
ここはしかし、食堂である。
「あぁぁ~」 と日本人なら うなづく。
そう。
抜けているのは「~を食べたい」という動詞。
「主語」が抜けるのは当たり前。
英文を邦訳する際、いちいち主語を入れて
いると、文章的にしつこい。
たとえば、孤児院からの子どもの手紙:
英文直訳:
わたしは3年生です。わたしは10歳です。
わたしは算数が好きです。
わたしはこの夏休みにキャンプに行きました。
邦文的訳:
わたしは3年生で10歳です。
算数が好きです。この夏休みにキャンプに行きました。
となる。
会話でも文でもそのときの情景、前後の文脈で、
「だれが」「なにを」と想像できるものは削除する。
これが長年連れ添った夫婦になると「あれ、取って」
もっとひどくなると「えっと、あれ」だけで通じる。
確かに日本の文化というのは「わたしが」「オレが」
という自己主張は疎んじられる風習がある。
「我を張らない」「無私」「謙虚」が美徳とされ
「和合」「満場一致」でコトを遂行する。

こんな環境で育った日本人に、国際社会でモノ述べる
機会などあれば、たちまち混乱する。
それは言葉が通じないからではない。
日本人が何を言おうとしているのか、相手に伝わらないのである
周囲を乱す極端な自己主張ではなく、適度な主張は
今後の社会では必要だと思われる。
なぜなら
単一民族である昔の日本人なら「あ・うん」の呼吸
で判断できたものが、インターネットによる
多次元・多種多様な情報に取り巻かれている現代人同士には
はっきり言って他民族かと思われるほどの思考の相違がある。
まさに現代の日本人は
そこで生じる誤解、疑念、悪気は無かった行為に
魂が震えあがっているように見える。
2月4日。
立春を経て、壬辰(みずのえ・たつ)年がスタートした。
壬と辰に女偏をつけると「妊娠」となる。
なにかが孕(はら)む年。ゆえに結果が出るとき。
それは今までの成果にすぎない。
今さらジタバタしても、すでに熟している。
波動が激しく移り変わる昨今。
今までの「言わなくてもわかる」やり方から
「何がしたいか」気づく「あり方」でいたい

2012年。
静かなる「自己主張」を自らに告げていこう。

季節のささやき

朝、晩 湯船に浸かる わたし。
この時期、浸かっているうちに、冷める湯。
されど追い炊きできず、我慢する わたし。
が大量に湯船に入っているため、
追い炊きは風呂釜にとって致命的。
朝風呂後、風呂場の窓を開け放ち
それはいつも、夜風呂時に閉められる。
本日の夜。湯を張ろうと風呂場へ。
あれ? ドアが開きにくいぞ。
もしかして凍ってる
グァッシャン。
   ぎゃあぁぁぁあ
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風呂場が氷河期と化す
窓が開いたそこは、氷点下の世界。
シャワーから滴り落ちる水滴が、水道の蛇口
を皿にし「ツララ」となってそびえ立つ
昨日までは単に真冬だった風呂場が、
いきなり氷河期に。
明日の節分を前に、季節の境を感じた。
冬(陰)から春(陽)になる節目に行ずる「豆まき」。
鬼(オニ)=穏(オン)=陰(イン)。
つまり、陰(冬)を追い出し陽(春)を取り込む儀式だ。
だから、この地域の豆まきは男(陽)が撒くという。
春に女(陰)の出番は無い。
特に年男(今年は辰年生)で若い(18歳以上)のがいい。
季節の替わり目、年の替わり目、運気の替わり目。
すべてが不安定でもあり、チャンスでもある。
いい悪い、どっちにも転べる境目には、
天の恵みを受けておきたい。
明日、季節という生きモノが自己主張するとき。
しっかり耳をそばだてよう。
今年の「言い分」が、必ずあるはず。

コードは語る

デリーに住むギビング・ハンズのスタッフに
中古のノートパソコンを仕事用にと渡したことがある。
その 3ヵ月後。グレー色のPCコードが汚れで
真っ黒になっていた。
デリー市内を歩くとスモッグと埃でいつもむせかえる
   外でPC使っていたの?
スタッフに尋ねた。
「いいえ、家のなかだけで使っていました」
   ・・・
インドでは家の中でさえ、暗黒公害が忍び寄るのかと驚く。
所は長野県。
お正月に長野に来ていた姪たちが帰り支度をしていた。
「PCのコードが硬くてしまえない!」
暖かい家で使っているのに、コードが寒さで硬直している。
動かぬコードは語る。その場の空気を。
そこにずっとあったものは、波動や空気が染み込むもの。
我われ人間も同じ場所に長時間いると、そこの磁場に感化されると。
昨日、親族の家で夕食を皆でとった。
そこの息子がわたしに訴える。
「聞いてくれる? おやじが洗濯物を干す
服がシワクチャなんだよ。
   ※定年退職した父が洗濯係
で、この前おやじが干しているのを見かけたから
文句言おうかとベランダに出てみたら
な・ん・と! 干したそばから洗濯物が凍ってるんだよ~
あのシワは、おやじのせいじゃなかったわ。
にしても、昼でも氷点下なのに、こんな外に干すこと
自体、おかしいと思わない?!」

   ・・・ 絶句
さすが、これには参った。
ここの人たちはしかし、ずっとこんな「魔」冬を過ごしている。
もう身体の芯から「寒さ」が染み込んでいるのだろうか・・・
で、いったい、いつになったら凍った洗濯物が乾くというのか。
不思議だ。
インドで蚊に刺されまくったわたしの皮膚は
日本帰国後その傷痕を2週間残す。
その場で受けた波動、空気、温度、気候、傷痕は
しばらくたっても消えない。
どころか、ずっとその場にいると染み込んで抜けなくなる。
ゆえにときどき磁場を変えるために、どこかに出掛けてみる。
でないと、染み付いた「匂い」に気づかなくなる
インドではまったく分からぬ匂いが自国に移動すると、
成田の麻薬犬がわたしのバックに疑いをかけるように
恥ずかしい思いをすることになる。
いつでも客観的な視点を保つには、その場から定期的に離れることだと。