Are you kidding? -冗談でしょ-

   君、何歳?
「10歳。で、あなたは?」
   Guess what? (当ててみて)
「ん~ 18歳かな・・・」
   はぁぁあ? Are you kidding?
「え~ だってお母さんより若いんでしょ?」
   お母さん、何歳よ?
「34歳。だから、18~20歳くらいかなっと」
   ・・・・
これ、誰のこと指してるかわかります?
わたしですよ、わ・た・し。
日本人は、とかく外国では若く見られる。
しかし、ここまでくると単に冗談だと(笑)。
考えてみたらわたしが10歳だった頃、同じ日本人の30も40歳も
みな一緒の「おばさん、おじさん」に見えたのだから、インド人
の子どもに外人の年齢を聞くこと自体、愚かなことだった。
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この子と一緒に、山あり谷ありの1500m級聖山に登った。
距離にして12km。しかも、道中ほぼ裸足。
わたしはいくら聖地といえど、要は山登りだと覚悟し、
汚れてもいい動きやすい服を身につけた。ただし足には
サンダルという、日本では考えられない出で立ちだ。
しかしインド人は・・・
男性は上半身裸、下はドーティ(スカートのようなもの)か
短パンだ。女性はなんと最上級のサリーと子どもはドレスである。
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寺院に詣でるときは、確かにみな着飾る。それは山のてっぺんの
参拝でも変わらない、ということか?
まさか歩くだけでも大変そうなサリーで登るなんて、日本人が
和服を着て山登りするようなもの。しかも裸足でだ。
男性は、イザというとき身を守る覆いモノは、ほぼ皆無。
裸同然だ。
まして、子どもはまだ10歳。険しい山に登るだけでも大丈夫かと
思うのに、くるぶしまで長いドレスときた。
まだ薄暗い早朝集合時の服装を見て、一瞬目を疑った。
きっと直前で着替えるのだろうと・・・
これこそまさに Are you kidding? (冗談でしょ)だった。
結果、そのままのサリーとドレスの裾をたくし上げながら、
彼女らはミゴトに登頂したのだ!!
この子の叔母さんは、日本に在住するインド人である。
ときどきこちらで主催するNPOフェスティバルにて、サリー
着用マネキンとして参加してもらっている。
今回この子は巡礼同行者として、わたしがサンダルを脱げば
一緒に脱ぎ、休憩だと腰を下ろせばとなりに座ってくる。
そしてそっと耳打ちしてくる。
「みんながあなたのこと、見・て・い・る・よ」 と。
しかし、一番興味津々なのは、他でもない「君」でしょうが!
あたかも、今では一児の母である十数年前のわたしの姪っ子が、
時々会う珍しい叔母さんの真似をしていた頃とそっくりである。
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登山で汗だくになった身体を川で洗い、まだ気温上がらぬ
早朝参拝時にも、再度水浴びで清めるインド人。
片や、山からの水をホースで池に引き込んだだけのオープン
水場で、どうやって日本人に 『沐浴』 (シャワー)せいと
いうのか?
顔と手足ぐらいの “お清め” しかせず参拝する日本人を
彼らもきっと Are you kidding? → なんて無礼者!
と思ったに違いない。
ここまで文化が違ってくると、目を丸くするというより、
目を皿のようにして、真似をするしかない。
山登りは、完全防備で臨むのが常識と思っていると、
完全無防備と裸足での巡礼が常識のインド人が、
もし霊峰富士に登る場合は、いったいどんな出で立ちなのか?
完全無防備なのは、インドの特殊な “気” に守られている
からこそ、出来るのだろうと。

お客様は『神様』じゃない

無言で車を降りるドライバー。
ガイドなしの車中、ひたすら待たされること30分。
すると山ほどの花と、大きな葉っぱを担いで
戻ってきた。
そう、タクシードライバーは客を待たせて
『買い物』していたと!
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今日はインド最大のお祭りナワラトリ -Navaratri- の最終日。
明日はその締めくくりともいえるダサラ-Dassara-の日。
神々への供養のために必要な品々を、集めていたということだ。
言葉のギャップはあるにせよ、ひと言ぐらいモノもうせ!
と思ったが、そこはいつも世話になってるドライバー
客よりも 『神様』 のほうが大切だろうと、大目にみる
ことにした。
インドはいつ来ても、日本でいう夏祭りのようである。
バザールには臨時の店が立ち並び、お祭りに必要な品々
が売られている。
今回の旅は、コブラの吉兆からはじまり不可能と思われた
スケジュールを奇跡的にやりこなせ、ようやく最終目的地
であるバンガロールに到着した。
いつものように寝台車が朝6時にシティ駅に到着した。
山ほどある荷物をタクシー乗り場まで運んでくれるのは
赤帽ならぬ、赤い服着用のポーターたちである。
インド人の4倍は運び賃をふっ掛けられるので、毎回
値段交渉にひと悶着ある。まずはプラットホームを降りた
瞬間ポーターたちが、外人=上客とばかりに群がってくる。
だれが請け負うかの赤帽たちの喧嘩から、わたしとの
値段交渉に数分は費やす。
なんとか普通の3倍くらいまで値を下げて(笑)運んでもらう
のだが、なんと今回は、降りる前にポーターが車中に乗り
込んできて、わたしの目の前に突如現れた。
「荷物、運びますよ」 と。
   How much?
そこで聞かされた値段は、インド人のそれより低かった!!
まさか、と耳を疑い 3回聞き直した。
しかし、ここで油断してはならない。
高いタクシー乗り場まで連れて行かれるかもしれないし、
運び終わったあと請求されるかもしれないから。
まぁ そんなことはインド慣れしているわたしに
通じるわけがないから、このポーターに頼むことにした。
すると、このおじさん、なんの問題もなく指定した場所に
追加請求もなく!連れて行ってくれたのだ!!
   奇跡だ~
ITで急成長している都会バンガロールで、今までどれほど
外人目当てのポーターに悩まされたことか・・・
しかもこのおじさん、突如わたしの目の前に現れた人物である。
   なぜだ、なぜだ、なぜだ!!!!!!!!!
すべての出来事には理由がある。
そういえば、今回は仕事が奇跡的にやりこなせたので
お礼と寄附を含めて、多めの支払いを終えたばかりだった。
世の中は 『エネルギー保存の法則』 が働くといわれてる。
だから、このようなエネルギーバランスが保たれたのか。
タクシー待ちの間、この誠実なポーターの仕事ぶりを見て
いたら、次から次へと良さげな顧客に出くわしてた。
他のポーターは自ら探しにいってるというのに・・・
与える者は与えられ(搾取されず)、奪う者は奪われる
(与えられず)
ということだ。
この絶妙なバランスを神々が調整しているとしたならば、
客などほっておいてでも、神のための買い物に勤しむ
インド人の気持ちが、わからなくもないと。

吉兆

   ききぃぃぃいいいいいい!
乗っていた車が、急ブレーキ音をたてて停まった。
   また、事故かぁ!?
と思いきや、とりたてナンの衝撃もない。
デリーから南インド入りしたその日、軽快に走りゆく車の前を
2メートルはあろう大蛇が、悠々と横断していった。
しかも、アスファルト道から草むらに入っていく様を、じっと
眺め終わるまで、タクシードライバーは動こうともしない。
   あれは、毒ヘビか?
「そうとも、コブラだよ!」
   ・・・・
コブラが普通に庶民の前に現れるところに住んだことの
ないわたしは、奇異の目でその毒ヘビを追った。
感覚的には悪寒が走る。反面 「なんて幸先のいい吉兆!」
かと、仕事の初っぱなから嬉しい予感が走った。
インドでヘビというと、神々に匹敵するほど崇められている。
たとえ家の中でヘビを発見しても、決して殺してはならない。
しかし、あらゆる手を使って外に出そうと努力しても手に
あまる場合は、小さな子どもへの危険をさけるため、
処分せざるを得ない。
そのとき自らの手で殺めてはならず、専門職人
(スネークキラー?)を呼ぶのだと。
また、ヘビの亡き骸も投げ捨ててはならず、厳かな儀式を執り
行ってから家の近くに埋葬するという、ナンとも凄い扱いである。
ここ南インドでは、ヘビの象徴である寺院があちこち点在し
実際、夜な夜な大蛇が寺院を訪れる。その証拠に脱皮していく。
それが一回や二回じゃないので、新聞に報道される
ほどの 『ネタ』 になる。
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       惑星ラーフの寺院 Thirunageshuwaram での吉兆
        Thiru(聖なる) naga(ナーガ=龍) shuwaram(神)

      ラーフとは、ラーフ/ケートゥという、元はひとつの大蛇だった
      神が頭と胴体に分かれたという神話に基づく占星術上の惑星。
      この寺院で神々に聖なるミルク(その後は水)を注いだら、
      ミルクと水が混ざらず分離したまま蛇行して流れたのだと。
      すぐさま参拝者が新聞社に伝え、ニュース(今年の2月)に
      なるほど、蛇信仰は根強い。

インドではコブラの脱け殻はよく見かけるが、生き神様との
遭遇は初めてである。この吉兆が土星新年の始まりとして
どのような展開になっていくのか、とても楽しみである。
それを南インド人に伝えたら、南での土星移動は、
9月26日だから、まだ新年ではなく暮れにあたるのだと。
南と北では、使っているパンチャンガ(暦)が異なるため、
毎回、重要な惑星移動(トランジット)がずれ込む。
北インドをはじめとする世界中のインド占星術師は、計算上導き
出される天の運行に従ったティルカニタ(Thirukanitha)を使用する。
しかし南インドでは、聖者からの口伝であるワキヤ(Walkya)
に従っている。
刻一刻と地軸の傾きが変わる歳差運動を考慮したティルカニタが
当然正確だと思われるのだが、そう言うと南の術師は黙っちゃいない。
彼らの主張はこうだ。
「確かに実際の天の動きはそうかもしれない。
しかし、聖者たるものそんなことは百も承知でワキヤ・システム
を弟子に残してくれている。それをわれわれ凡人が、浅はかな
思考で正しいと思い込んでいるかもしれない計算を、
なぜ使うことなどできるというのかね!」

   あ~ また始まった・・・
南インドの術師は、どこかの教祖顔負け信仰を貫き通す。
コンピュターソフトを使わず、未だにマニュアルでホロスコープ
を作る。少しでも惑星位置の誤りを指摘しようものなら、
ソフトが間違っていると平気でのたまう。
また南の占術は、日本で生まれようとインドの反対側に生まれ
ようと、出生時刻をみなインド時間に直してホロスコープを
作成してしまう。
なぜ、あえてアセンダント(上昇宮)が変わってしまうことを、
わざわざするのか聞いてみた。
「このパンチャンガ(暦)はインドで聖者が作り出したものである。
だから、どこで生まれようとインド時間で計算するのが理に適っている」

   は~ そうでございまっか!
彼らはいつも、インド中心に地球をまわしている。
議論しても勝てっこない。
彼らは子どもの頃から24時間付きっ切りで、師匠に奉仕しながら
学んできたツワモノ。確固たる職人魂がある。それがIT出現
による、わたしのような 『にわか占星術師』 に、さも解ったような
顔をされるなんて、絶対許せないと(笑)。
古代の聖者の沽券を守る伝統派と、時代にあったやり方をとる
近代派(?)の対立は、どの世界でもあること。
きっと南インドの天空にだけ、土星は26日に移動するのでしょう。
なぜなら、惑星移動を世界中で一番意識している地域だから、
星が彼らに合わせてくれると・・・
南北両域に活動拠点をもつわたしは、何はともあれ土星移動を
二回も経験できるのだから、これもコブラくんの吉兆のお陰と
思うことにしよう。

拠りどころ その4

信仰を持っている人は、精神的な病になりにくいと聞く。
なぜなら 『拠りどころ』 があるから。
それを 『依存』 と呼ぶ人もいる。
では、そう呼ぶ人はどこにも依存していないのかと・・・
子どもは親に
北欧人は福祉に
インド人は宗教に

   では、日本は?
戦前の日本人の拠りどころは、自然神であったり
その象徴である天皇率いる国家でもあった。
しかし、『経済至上主義』を柱に打ち出した戦後の
拠りどころは、ずばり“会社”といえるのではないか。
年功序列、終身雇用。 とりあえず
会社にしがみついてさえいれば、将来は安泰だった。
こんな幻影が崩れ去った今、多くの50代男性が自ら命を
絶っていく。また、会社は “拠りどころ” にはならないと
醒めきった若者は、次々と撤退(脱落ではなく)していく。
それを自己逃避だと言われる。
北欧での福祉制度が女性の自立を助ける反面、
離婚率の増加に拍車をかけている。
インドの廃れきった政治土壌が、国民同士の
助け “愛” を生みだしている。
日本の経済至上主義が、若者たちの「いらない族」を作り出し、
かえってモノが売れなくなっている。

こんなパラドックスをみると、なにが善いのか悪いか
まったく判断できなくなる。
モノゴトの一面だけでは見えない、社会のしくみと本質。
すべては表裏一体。
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『拠りどころ』とは、鳥の止まり木のようなもの。
本来 立ち寄り処であるはずなのに、拠りかかりっぱなし
だと、かえって弊害が生じる。
いざ木が折れたとき、いったいどうするというのか。
日本人はワーカーホリック(仕事中毒)といわれているが、
それは、会社信仰が成立したうえでのこと。
そうなくなりつつある昨今、なんらかの価値観をシフト
しなければ、その狭間で犠牲者となってしまう。
濁流に飲まれて流されるか、この変化にのって
大転換できるか、二極に分かれる時代がきたようだ。
それには、常に 『手段と目的』 を履き違えないよう、
しっかりと意識するしかなそうだ。
チェティ博士率いるインド人とスウェーデン人。
ともに学ぶべき友に囲まれた楽しい夕食は、
今後もしばらく続くようだ。
                           Fin

拠りどころ その3

民主主義国家とは!
『国民のための』、『国民による』、『国民の』政治である。
チェティ博士の演説は、重要項目は何度でも繰り返される。
しかしそれは、『国民のための』なんていう茶番にすぎない
現実にも、決して「あきらめない」という主張でもある。
最近は若き期待の新人議員が、熱く行動しているらしいから・・・
スウェーデン同様、福祉国家であるデンマークの医療制度を
知ったとき、これこそ『国民のための』システムだと、
こんな制度がこの地球上にあったことに、いたく感動したものだ。
デンマークでは医療は基本的に無料(歯科のみ有料)である。
健康保険でまかなわれ、加入する際には担当の町医者の名前
を記入しなくてはならない。
  この町医制度が、優れものである。
保険加入と同時に、約500万人の国民に対して3000人ほどいる
開業医の中から、かかりつけの医師を指定する。この医者が
すべての窓口となり、必要に応じて市民病院の専門医に
回してくれる。
さらに薬の販売はできない。処方箋を書くだけである。
  またこの報酬制度が、実に素晴らしい。
報酬は、加入者数(つまり人気投票数)とそれによる保険料から
加入者に要した薬代と治療経費を “差し引いた” 合計によって
決められる。
すなわち、担当する加入者が多く、その方々が病気にならなければ
一番高い報酬ということになる
。つまり、医療行為をしないことが
効率いい仕事ということ。
もし病気にかかった場合は、即効性のある薬を使用し、速やかに
治療しなければならない。でなければ減収となるからだ。
また、薬メーカーも売らんがための、だらだら長引かせる
薬ではなく、常によい薬を出さなければ社会に受け入れて
もらえないことになる。
  これぞ医療の理想じゃありませんか!
だからデンマークでは多くの日本の医師が働き、学んでいるという。
決して今の日本には還元できない制度だが、医師としての
『Be』あり方が満足できるからだろう。
このようなデンマークをはじめとする北欧の『予防医療』制度を
決めているのが “政治” である。
  であれば、選挙に国民が関心ないわけない!!
日本の経営管理中心の医療システムでは、乱診乱療による
医師側のストレスが増大するばかりが、患者側も医療品販売競争
による経営システムに巻き込まれ、こんな薬漬け医療においそれと
大切な人命を任せる気になどなれんだろう。
日本では捨てられる薬剤費が10兆円以上もあるという。
これは国家予算の1/3が医療費なので、ムダ金がなんと多いことか。
さらに薬剤メーカーが病院側へ「お礼参り」に使用している捨て金
がいったいどれほどかは、診療室の前で列をなしている営業マンが
多くを物語っているだろう。
つづく・・・

拠りどころ その2

最近日本においても衆議院選挙が行なわれた。
わたしが住むマンションでは、選挙時になると熱心に
各世帯を訪問し、候補者の紹介をしてまわる住人がいる。
その義理人情でか、母親はいそいそと選挙会場に向かうのだ。
帰ってきてから 「誰に?」 と聞いても 「内緒」 と答える。
果たしてその人に入れているかは、はなはだ疑問である。
今回の民主党圧勝は、自民党にこれ以上我慢できないという
国民の矛先が、他党に向いた “怒り票” だともいわれている。
投票率69.28%の内情は、「○○よりマシ」という消去法の
結果かもしれない。もはや日本の政治家への 『期待値』 を
計ることは難しい。
  ではインドにおける投票率は・・・
  35~40%
しかも、この内情はヒドイものである。
ほぼスラムの貧困者たちの投票だ。
中流階級以上の民は、まず選挙に行かない。
日本の選挙日は必ず日曜日だが、インドは普通の日。
で、その日は休みになるから嬉しいと。
投票にはいかず、遊びに出かける。
  なぜ投票しないのか。
そこには選挙問題だけでなく、この国の多民族多様性が
見え隠れしている。
宗教、カースト、出身地、言語が複雑な人種の中、制限された
候補者に一票を投じるなど、所詮ムリがある。
当選した議員と同等種類の国民が、優遇されるだけである。
日本ではせいぜいが、出身地発「おらが村の議員先生」に留まる。
この投票率を貧困層が作っていると聞いたとき、これぞインド
国民の『期待値』だろう! と思いきや・・・
すべてお金で買収された票だった。
彼らはお金やモノで簡単に、動く。しかも、ソツなくすべての
党から献金されるよう賢く行動するのだと。だから選挙期間が
大好きである。こんな効率よい稼ぎ場はないのだから。
こうしてバラ撒かれたお金が有効に使われているかなんて、
わかろうハズもない。うちの母のように、会場に行きさえ
すれば、義理(仕事)は果たしたことになるのだから。
こんなメチャクチャな投票システムで議員になろうなんて、
わたしから見たら一種の博打のようである。
しかし、たとえ億単位のモノ・カネが出ていっても、なった暁
には日給100万ルピー(200万円)が待っている。さらに、
その数十倍の賄賂が流れてくるのだから、博打だろうと
1回くらいの落選だろうと、その生業はやめられまい。
「こんなシステムで成り立っている政治の、どこが民主主義
と言えるかね?単なるゲームに過ぎないさ。そんなものに
いちいち付き合ってる暇などないんだよ」

これを聞いて呆然とするスウェディッシュが、口を開いた。
「信じられない・・・わが国の投票率は最低ラインでも75~80%。
たとえ90%だとしても、なぜ10%の不投票があったかを調べるのに

  わ~ぉ!
これを聞いた日本人(わたし)は、インド実情よりブッたまげた。
                         つづく・・・

拠りどころ その1

「ここでは食事も制服も与えられるが、そんなモノより
        みんなの『愛』がもらえることが、一番大切」
これが、孤児院に預けられた10歳の子どもの言葉である。
マザーテレサの言葉を思い出す。
Poor is Beautiful.
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彼は、半年前にここADFに入寮してきた、孤児ではないが
父親を交通事故で亡くしている、貧しい家庭の子どもである。
5人兄弟姉妹の一番上。父亡き母親の経済的負担を
軽減するため、ここに世話になっていると。
本来日本では、国の保護下でケアされる子どもが、
ここインドでは、民間施設が行なう。
このような格差(と呼べるほど単純な差では無い)を生み
出す根本原因が、『政治の腐敗』と以前から聞いてはいる。
しかし今回、福祉国家の代表ともいえるスウェーデン人と
テーブルを共にしたことで、世界レベルの対極を知ることができた。
また例のことく、理事であるチェティ博士が登場。
「インドはデモクラシー(民主主義)国家である。
しかし、ここでのデモクラシーはニセモノである。
日本やスウェーデンでは成り立つだろうが、ここでは
絶対的なムリがある」

「なぜかわかるか?」と、両国の生徒に問う博士。
ここでは毎晩、夕飯時には討論がなされる。政治、経済、テロ、
気候、文化、思想、教育問題と、日本にいても毎日話題にも
しない社会問題を、多国籍テーブルをいいことに、お互い
ディスカッションさせるのだ。
それでなくでも英単語を解するだけで大変なのに、話の論点
まで外したら、意見を振られても答えに窮することになる。
  むむ。今晩は政治ときましたか・・・
「なぜか」と聞かれても答えぬ白黄色人種を尻目に、博士の
演説がはじまった。しかも、ちゃんと食事を平らげながらの
早技に、まったくもって感心する。
                         つづく・・・

土星のお色直し?

昨日は、土星が移動してから初の土曜日。
ニューデリーの街をオート・リキシャで走っていたら、
いつもの土星処方の 『鉄』 売人がやってきた。
だが、いつもと違うモノを持っている。
よ~く見ると、土星(鉄)がなんと着飾っているじゃないですか!
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しかも、味も素っ気もないただの鉄の塊ではなく、
カタチも(ほのう)と化している。
   このバケツ入り鉄くんを買うのかしら?
「いえ、お賽銭を施してください」
よく見ると、売人は貧しい姿の子どもではない。
ちゃんとインド民族服のクルタを着て、頭には
ターバンまで巻いている。
どうやら、ただの物売りではなさそうだ。
道端のあちこちにも、土星のお祝い(?)お香が焚かれていた。
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さすがにいつもの土曜日とは違う。
新しい年が始まるかのようだ。
土星新年を祝うため、わたしも言われるままに
小銭を入れることにした。
これから2年半、どうかお手柔らかにお願い致します

下を向いて歩こう

「子どもたちの盗みが絶えなくて、困っているんだよ・・・」
さまざまな生い立ちを抱えて入寮してくる、孤児や恵まれない
子どもたちをケアしている、教師でもあるインドの孤児院理事
チェティ氏が、食事をしながら唐突にじゃべり出した。
  それはきっと、ストレスからなのでしょうね。
細かい事情のわからないわたしが、せいぜい答えられる
範囲の言葉だった。
親の愛からかけ離れてやってきた子どもたちに、ストレスが
ないわけない。しかし、小さな盗みを見逃すと、次第に大きな
盗みに発展し、取り返しのつかないことになるのだと。
だから、できるだけ子どもたちと接し、根気よく話し合う。
ときどきではなく、毎日少しでも会話するようにしていると。
  盗みをすること自体に焦点を当てるのではなく、
  その奥に潜む “何か” に触れる必要がありますよね?
「そうなんだ・・・ だから人生とは、人の尊厳とは、
幸運を楽しむことの重要性などを、少しずつ
話していくんだよ。 時間はかかるがね」
  では、学校でもそんなことを教えているんですね?
「う~ん。本来はもっとも重要なことなんだが、あまりにも
高度すぎて、誰もが理解できることじゃあないんだ。
だからステップ・バイ・ステップさ」
  しかし、日本より宗教的なインドなら、理解できるレベルは
  より深いですよね?
「そりゃそうなんだけど、逆の弊害もあるんだよ」
と、宗教よりも精神性(スピリチュアリティ)の高さが重要であること。
その最たるものが、宗教という名の下の 『チャリティ』 なのだという。
  は? なぜチャリティ・・・
インドという国は、ご存知のようにNGO大国である。
支援される側もする側も、国民総チャリティ文化の中で育っている。
チェティ氏が懸念しているのは、『する側』 の姿勢に問題アリなのだと。
宗教=神 ありき。この神の恩恵(God blessing)に与(あやか)りたいが
ゆえに、恵まれない人々に施しをする
例が少なくない。
本来は、
①援けたい対象の存在を知る
②何かしたいと思う
③実際に行動する
④結果、神の恩恵に与る

しかし、宗教大国なるがゆえに、④から逆向きに進むケースが
とても多いと。だから、現場で子どもたちが何を望んでいる
のかは、二の次となる。
  これでは意図が違うだろう。
今までに寄付者をたくさん受け入れてきた施設で、
チェティ氏は常に彼らの意図をじっくり観察してきた。
もしその意図が、逆向きと見て取れた場合、
「ここの子どもたちは恵まれていますので、寄付は結構です」
と、断る場合もあるのだそう。
   なるほど、潔い。
これは、以前書いた、慈善と偽善の狭間であろう。
http://giving-hands.jp/blog/wp-content/uploads/200807/article_7.html
つまり、「下心丸出しの慈善」を偽善とみなし、ここADFでは
そのような寄付は受け付けないという姿勢をとっている。
彼は敬虔なクリスチャンである。何も、信仰や『下心』ある慈善
を否定しているわけではない。無償の奉仕など、よほど高尚な
人物でない限り、はっきり言ってムリだともいう。
   では、何が問題か・・・
下心丸出しでも、ちゃんと対象である施される側の状況を
見ながら行動してほしい
、と。でないと、施される側の自立を
妨げることにも成りかねない。
つまり、みんな上(神)ばかり見ていて、下(対象者)を完全に
無視していると。彼らにとっては行為(Do)によって得られる
もの(Have)が重要であって、在り方(Be)は「自分への祝福」
という欲求なんだよ。
彼はこれを、スピリチュアル(精神性)という衣を着た
欺瞞(物質欲)だともいう。
これは、上司の評価を気にするセールスマンや、お上(行政)の
顔色をうかがう民間の国際援助機関(ODA)と似ている。
本当に使う人の立場を考えているのか。
真に援助国のニーズに応えているのか。
であれば、日本の政府のようにだれも通らないような
橋を、巨額の税金をかけて造らんだろうに。
要は、「ちゃんと下(民)を見て歩け」と。
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             Mr.Chetty
本日の仕事をひとしきり終え、ひとりで食事を摂っていたところに
通りかかったチェティ氏との、たわいもない雑談が、彼の苦悩と
わたし(日本人として)の課題が合体したような、神妙な話しになった。
日本人は特定の宗教を持たないように見える。
信仰とはいかに精神性を高められるかが大事であって、
神からの祝福(恩恵)をいかに受けるかに焦点を当てていると、
パラドックスが起こってくる。
だから、かえって日本人的 『曖昧』 信仰の方がいい場合もある。
これが、神社への参拝は “願い事をする” のではなく、
ご挨拶と感謝のために行くもの、といわれる所以であろう。
この、精神性を高めるという大義名分を隠れ蓑に、実は自己の
欲求を満たしている 『スピリチュアル・マテリアリズム
(精神の物質主義)』
こそが、欲望多き人間の、越えなければ
ならない永遠のテーマなのかもしれない。
チェティ氏曰く、施設の子どもの盗み同様、ストレス多き
現代人に、この高いハードルをいきなり越えろというのは
ムリがあると。
すべてステップ・バイ・ステップだ。
インドは今、雨期の終わりなのに、一昨日から初期のような
長雨が続いている。どうやら土星がトランジット(移動)した
その日から、天候が崩れているようだ。
2年半のテーマを終えた土星が、乙女座に課題を移したことで
天地がその調整をしているかのようである。
テーマが変われば天地も揺れる。まして、天地の狭間に在る
『人』の心身が乱れるのは、極、自然のことなのだろうと・・・

ソーラー・リターン

「お誕生日のメッセージ、ありがとうございました。
憶えていてくれて、本当に嬉しいです。
自分の誕生日を個人的な誰かに祝ってもらえるなんて、
思ってもみなかったので、すごくビックリしました」

インドの子どもを 『チャイルド・サポーティング』 している
日本のスポンサーが、担当の子どもの誕生日にカードと
プレゼントを送ったときの返事だ。
※プレゼントできるものは、個人的なものでなく、
 施設の子どもみんなが使用できるもの(クレヨン、
 折り紙、 トランプなど)に限られます。

インドの孤児院 ADFの子どもたちの誕生日は、自分と
同じ生まれ月の子たち皆が、一緒にお祝いしてもらう。
だから個人的な誕生カードが、しかも海の向こうの
日本からやってくることに、戸惑いを隠せないようだ。
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誕生日。それは誰もが祝福されるとき。
しかし 本当に喜ばしいことなのか・・・
誕生した日というのは、安全な母体から、この世という
波動の荒い世界に生まれ出た瞬間
それは、大きな環境の変化を経験した日でもある。
その瞬間の記憶は深い意識に刻み込まれているので、
その日がくるたび反応し、心がリセットされるのだと。
これを知る星の国インドでは、細心の注意を払って、
誕生日は慎重かつ謙虚に過ごさなければならない
とされている。
なぜなら、魂の本質である 『太陽』 が一年ぶりに
同じ星座にもどってくる(ソーラー・リターン)ときだから。
そのため、運のスイッチボタンが入れ替わるような
大きな変化が内面に起こるといわれている。
自分史の元旦である誕生日は、ひとつの区切りとして、
しっかりと儀式は行なわれる。だが、日本のそれとは異なり、
陽気に「おめでとう」と、お祝いしているだけではない
次の一年を無事過ごせるよう、神々に祈り、恵まれない
子どもたちに施しをするのだと。
http://giving-hands.jp/blog/wp-content/uploads/200807/article_2.html
つまり誕生日は “祝ってもらう” のではなく、他のための
“善事を行なう”
特別な日としている。
     「生かしていただいて ありがとう」
と。
『誕生日』 ひとつとっても、根本的な意味を知っているのと
いないのとでは、心構えが変わるもの。それは日・月食の
認識の違いと同じだ。
http://giving-hands.jp/blog/wp-content/uploads/200906/article_6.html
その土台となっている、以下のインド思想がすべてを
物語っているのだろう。
   誕生のときには、あなたが泣き、
   全世界は喜びに沸く。
   死ぬときには、全世界が泣き、
   あなたは喜びにあふれる。
   かくのごとく、生きることだ。

     「三万年の死の教え」 中沢 新一
          ~NHKスペシャル「チベット死者の書」より~

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