胸張って生きてるかい?

「お母さんも 捨てたもんじゃないね!」
毎年一回、支援しているインドとネパール施設から、
子どもの成長と、年間プロジェクトの報告が届く。
今年の分を受け取った方が、子ども支援の内容を見た、
18歳になる自分の子どもからこう言われたと。
親としての姿勢を、子どもはしっかり見ている。
昨今では、企業で定着しつつあるCSR(Corporate Social Responsibility)
           企業の社会的責任。
※企業が利益を追求するだけでなく、社会へ与える影響に責任をもつこと。
 しかし、一般に日本企業がCSRに期待するものは、「企業の持続的発展」
 であり、そのため、しばしば企業の社会的責任は企業の社会的貢献や
 企業イメージの向上を図る諸活動(いわゆる寄付などの慈善活動)の
 ように考えられ、このため企業収益を実現した後の活動のみを指すものと
 誤解されることが多い。
 よって、企業活動における利益実現が主の目標でCSRは従と考えている
 企業経営者はいまだ多く、利益幅の小さな企業におけるCSRの活動は
 あまり進んでいない。

しかし、100年に1度といわれる経済危機の中で、CSRに対する
企業経営者の態度は、はっきり2つに分かれつつあると、
国連環境計画 金融イニシアチブ特別顧問 末吉 竹二郎 氏は
以下のように述べる。
「本体の事業が厳しい状況のときに、とてもCSRまで手が回らない」
という経営者、そして「社会全体が苦しいときだからこそ、CSR
力を入れなければならない」という経営者。
前者のようなリーダーは、早晩自ずから求心力を失い、生き残る
のは後者だと、私は思っています。
それはなぜなのかを理解していただくために、まず「CSRとは何か」
をあらためて考えてみましょう。
CSRの本質を私なりにわかりやすく言うと、外で働いているお父さん
(お母さん)が、食卓で子どもたちに、いま自分はこんなことを
していると胸を張って説明できるような仕事をすることです。
まさか、「食品の産地を偽装して儲けているんだよ」とは話せませんよね。
企業は本来、社会に奉仕し利益をもたらすものとして、社会から
存在を許されている。その社会の期待と要請に沿う形で事業を
行なうことが、とりもなおさずCSRなのです。
ですから、企業にとってビジネスとCSRは不可分であり、別々に捉える
こと自体が間違っています。ビジネスが順調で、資金に余裕があるときだけ
CSRを考え、苦しくなったらやめるという発想は、ナンセンスと言って
よいでしょう。

————————–
これは個人の生き方にも当てはまろう。
子どもには、「世の中に役立つ人になりなさい」と言っておいて
大人なのに、自分のことだけに時間・お金・労力を費やしている
親と、人のことも考えて生きている人間とでは、
HSRとしてどうなのよ?
※(Human Social Responsibility 人間の社会的責任)
と、子どもに思われてしまうのもしかたなかろう。
あ~ 
当時12歳だった、セヴァン・スズキ(カナダ人)の
伝説のスピーチを思い出す・・・
http://giving-hands.jp/blog/wp-content/uploads/200902/article_2.html

驚きの、日本コメ事情!

お米農家のお父さんから、来年の年間登録米
最終注文の確認があった。
来週からは、いよいよ稲こきがはじまる。
これで今年の米作り作業は終了となる。
あとは、今年の “もち米” での「餅作り」が待っている。
春に仕込んだ「信州手作り味噌」は、ちょうど今月から
食べられるようだ。
わたしはお米農家に育ったから、生産のことはよくわかる。
お米が田んぼでどのようにできるかくらい、知っている。
しかし、その米がどのように流通しているかなんて、
農協に出すところまでしか、知らない。
田舎のお米を食べなくなってから、ずいぶんと久しい。
都会で食べるご飯の味は、もう慣れっこになっている。
まして、うちでは雑穀を混ぜるので、
『味わう』 なんて、まず皆無だ。
毎日、にでもなった気分である。
だから田舎の白いご飯がおいしく感じるのは、
わたしにとってもムリないこと。
にしても、なぜ買ったお米とこんなに味が違うのか?

コメほど汚い世界はない
宝島社
吾妻 博勝
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その原因と日本の現実が、この本にあった。
       暗澹たるの世界だ。
   『コメほど汚い世界はない』 吾妻 博勝 著
         とにかく驚いた
そういえば、お父さんが言っていた。
「ブンドである『○○米』なんて表示してあっても、
    ほとんどがブンド(混ぜた)米だから、
           善いも悪いもごちゃ混ぜさぁ」

       いいですよ
同じブランドなら、茨木産だろうが新潟産だろうが
例えるなら、関東人と関西人を一緒にするようなもの。
しょせん同じ日本人。だまされたとしても許せる。
それが、中国人と日本人を混ぜて、すべて『日本人』
と、のたまうようなもの。
実際メキシコに行ったとき、中国人は平気で 『日本人』
と偽り、いい仕事をゲットしていた。
アジア圏外からみたら、中国も日本もみな一緒だ。
そう。消費者レベルで区別がつかない『米』
というひとくくりで、事故米、汚染米をはじめ「線路米」
「被曝米」「カドミウム米」
なんてのが、米業界には
あるようだ。
昔からくず米が、二束三文でせんべいやお菓子屋さんに
引き取られていることはよく聞く。
これは、野菜の “はぶき” (カタチが悪く流通できないもの)と
一緒で、中味は変わらない。しかし闇米世界では、食品として
出せないものが、当たり前に混ぜられはびこっている。
     これじゃあ、輸入米とどこが違うのか?
今後、安心できる米を食べたいのなら、自分でつくるか、
出どころがわかる知人がつくった米を、直接譲ってもらうしか
ないじゃないかと思われる。
いやな黒い闇世界をみてしまった気がする。
少しなら、まだお父さんトコの長野産コシヒカリ、ありますよ。
http://giving-hands.jp/farm/vegetable-box.html
            締め切り:11月末
 
内容(「BOOK」データベースより)
農業経済の復興が叫ばれている昨今ですが、そのカナメはコメです。
しかし、私たちはコメがどのように流通しているのか、ほとんど
その実態を知りません。
本書は、コメ流通の闇から農政事務所の不都合な実態、生産農家の
不明瞭な土地取引、農協、農水族、農水省の癒着問題、さらには
自主流通米のウラで横行しているライスロンダリングの手口
(事故米の混入、ブランド米偽装)など、日本人の主食「コメ」の
暗部を、初めて具体的に取材したルポルタージュ。
都市住民から生産者まで、驚くべき事実が明かされます。
収穫量の30倍が流通する魚沼産コシヒカリの謎!ライスロンダリング
の横行、クズ米・事故米の混入、闇で売買されるブランド米の空袋、
農政事務所の癒着役人、農協「農薬利権」の秘密、告発ルポ!
コメ流通の知られざるカラクリ、主食にだまされる日本人。

視点の違い

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日食寄付をしたチベッタン学校から、子どもたちの
ピクニック報告の写真が届いた。
子どもたちの年間表彰も、行なわれたようだ。
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日食の知識を分けてもらったお礼としての寄付。
お互い 『ない』 ものを補い助け合う。
先日インド人の慈善家が訪日した。
その講演会に参加してみた。
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          国際NGO法人 代表
この慈善家は、来日後まず大学を訪れた。
そこで若者と話して知った、日本の実態。
    一日100人が自殺している
愕然とした。
そして、後悔もしていた。
 「もっと早く日本に来ていればよかった」 と。
その後、1,000人の聴衆に向かって問いかけた。
 「インド5,000年の叡智を使って、日本の若者のために
 癒しの空間を創りたい。協力してくれる方、挙手願えますか?」

パラパラと挙がる協力者に向かって再度うながした。

 「どなたかこのプロジェクトのリーダー(責任者)に
 なってくださる方、いますか!」

すると会場の端っこで、男性がすっくと立ち上がり
手を掲げた。
      なんだかホッとした。
日本の抱える大きな問題、『増え続ける自殺者』
それをインド人が自ら調査し、本気で哀れみ、
解決のための具体策に乗り出した。
日本の課題なのに、日本人に協力を請う。
それに戸惑う自国人たち。
この違和感ある不思議なやりとりを、呆然と眺めた。
いったいこの重大な会話を、わたしをはじめとする
どれだけの人たちが、感じ取れたことだろうか。
これは、日本人が国際協力関係で途上国に赴いたとき
頻繁に起こるやりとりと似ている。
途上国の不衛生な生活ぶりや、理不尽な行動に直面する
たび、ことの重大さに驚愕する。
井戸掘りの段取りや衛生面での指導、女性問題などの
解決に当たって現地人の協力をうながす。
しかし、いままで問題は多々あるにせよ、なにが原因か
不明瞭なままに、改善策を打ち出されても現地人には
ピンとこないのだと。
それゆえ、現地の協力者を募るのはひと苦労。
これと同じことが、日本という国で今、起きている。
マテリアル途上国とスピリチュアル途上国の
視点の違いこそあれ、お互いに
    このままではマズイだろうがぁ~
と感じていることは確かだ。
日食寄付で潤うチベッタン学校の報告をみながら、
インド慈善家の熱い想いとの微妙なバランスに、
お互い持ちつ持たれつなのだと実感した。

わたしの自慢

わたしには、中国人老師についている地理師(風水)の先生がいる。
日本人だが、海外在住の尊敬する師である。
この先生、一度教えた門下生には、最後まで付きっ切りで指導
くださる。こんな先生、日本ではお目にかかったことがない。
先生は言う。
「あなたはわたしの延長です。間違ったことされたらすべて
わたしに返ってくる。だから正しく導く責任がある」

占術本場のインドと中国系先生の共通点は、『術』を教える
だけでなく、術師としての姿勢 “あり方” に重点を
おかれている。
特に『天徳』に関しては厳しい。
インド系先生は、ウパヤ(処方)として
『チャリティ』 と 『ヨーガ』 を推進し
中国系先生は、1:命、2:運、3:風水、4:積陰徳、5:唸書
という開運五箇条の『積徳』を重視する。
人生の中で困難が見られるとき、「チャリティせよ」というインド先生。
ラッキーな現象が表れると、「徳のある人」だという中国系先生。
つまり、『困難』 はいくらでも乗り越える方法があり、
『幸運』 は必ず過去に原因がある
、とおっしゃる。
天徳とは「与える」行為によって積み上げられる貯蓄である。
Give and take とはよく言ったもの。最初に「give」がくる。
Take and give とは言わない。ましてTake and take などあり得ない。
いつも欲しいもの(Take)だけ掲げて、差し出す(Give)もの
がないなら、手に入らなくて当たり前。
これに気づいたなら、Take → Give and Take → 最終的には 
Give and give and be given(差し出し続けると、手に入る)
に自然となるのだろう。
こんなことを教えてくれる先生を持つわたしは、
なんてラッキーなのかと、いつもまわりに自慢している。

母なる大地

地球からは地磁気が放たれ、大気圏を覆い、
人類を有害な宇宙エネルギーから守護している。
地球は磁石であるのだと。
それは地殻中心がで出来ており、それが地球の
1/3をも占めているから。
ゆえに、地球はからつくられているといっても
過言ではない。
       昨日、『鉄展』 に行ってきた。
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東大の博物館なんぞに足を踏み入れたのは初めて。
そこで、偉い教授方の話しを聞いてきた(映像だが)。
わたしの周りには、自称 『教授』 や 『博士』 たちが
たくさんいる。だが、ここではホンモノである。
宇宙から降ってきたという鉄隕石なるものに、
土星トランジット後にちなんで、せっかくだから触れてきた。
人類史上始まって以来、『鉄』が地球を支えてきた
ことが、この展示会でわかった。
それはまるで、われわれの人生を支えているのは、
『忍耐』 を表す土星(鉄)であるかのように。
また、鉄中心の地球が “母なる大地” となって、
人類を育んできたのだと。
この「モノ言わぬ」地球のことを、今までナンにも
知らなかったと愕然とした。
自己主張しない母の叫びを聞けぬ子どもより
敏感な変化を感じ取れる、賢い子どもでいたいと思った。

嫌な役割り

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        新たに見つかった土星の輪のイメージ図
NASAは7日、土星を囲む巨大な輪を赤外線宇宙望遠鏡
「スピッツァー」で発見したと発表した。

9月の土星トランジット後に、こんなニュースが
流れるのも意味深である。
占星学的にみて天空に現れる惑星は、発見を期にその
象意が地上に投影されると言われている。
インド占星術では使用しない、外惑星(天王星、海王星、
冥王星)も発見されるたび、その象意が動き出したと。
かく言う冥王星が 『惑星』 領域から外されたその時期、
象意のひとつである 『アメリカ』 の没落が決定されたと、
西洋占星術師はいう。
土星の最たる象意といえば、『寿命』 である。
その主宰神はヤマ神 - 閻魔(えんま)様 –だ。
惑星寺院が点在する南インドでは、有名なヤマ神の
寺院がある。名称をスリワンジヤムという。
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           Srivamgiyam
昔々あるとき、自分を祀ってくれる寺院を持たない
ヤマ神は、シヴァ神に懇願した。
他の神々はみな、自社ビルならぬ自神寺院を与えられて
いるのに、なぜ自分にはそのようなものがないのか?
ぜひ造ってください!
    なにを言っとるか。
    おまえは人の命を奪う神だ。
    誰がそんな役割りの寺院に参拝など来ようか?
シヴァ神は、気軽に事実を伝えたつもりが、
ヤマ神はそれを聞いて激怒した。
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                 ヤマ神
な、なんですってぇぇぇえええええええぃ!!!!
実際、人の寿命を決めているのは “あ・な・た”
シヴァ神様じゃあないですか!
わたしは、あなた様が決めた『その時』に役割り
を果たしに行くだけです。
なのに、そんな理不尽なこと言われるなんて・・・
誰もやらないその仕事を、あえて買って出ているわたしの
心粋っちゅうものは、どうなってしまうんですか!?
    そ、そうだったな、おまえは偉い。
    よくやってくれておる。
    よし。では希望通りに建立してやるぞ。
ここでヤマ神は、シヴァ神の言い分にも一理あるなと
建立に当たっての条件を出すことにした。
条件1:まず、寺院内に入る前にわたしヤマを奉ってくだされ。
    それにより、シヴァ神様を参拝するだけにならないように。
条件2:定期的なプロセッション(行進)には、わたしの両肩に
    シヴァ神とパールヴァティ女神様が載って一緒に行進くだされ。
    それにより、人びとがわたしをも観てくれるように。
それらの条件をシヴァ神は快諾し、今日までのスリワンジヤムは
人びとの寿命をコントロールする寺院として、高く奉られてきのだと。
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                バル・クリシュナ神
そして『死』はあくまでも始まりであり、次の生へと導かれるもの
として、『子宝』の寺院としても崇め奉られている。
今回のNASAの発見が、どのように地上に反映するのかは、
今後の見ものであろうが、少なくとも土星=再生(リセット)
含むことは否めないであろう。

『知る』 ということ

     遠い親戚より近くの他人
とはよく言ったもの。
日本での自然災害より、海の向こうのインド災害が気になる。
台風の影響が報道されても、つい、南インドの大洪水の
死者200人がどこでなのか、ネット検索してしまう。
人は 『知っている』 というだけで、観て見ぬフリはできぬもの。
今、英国人の書いた本を訳している。
本のテーマは「人は死んだらどうなるのか?」
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インドに住む著者に会いに、バンガロールへ赴いた。
出版にあたり、印税等の取り決めのため。
なぜ今、この本を日本で出したいかを伝えた。
そのひとつに年間自殺者の急増加がある。
その対策にと『農業プロジェクト』にも乗り出している。
彼女は問う。
「なぜ、そうなってしまったのか?」
とつとつと答えるわたしの言葉を遮るように、ひと言。
「あ~ “つながり”がなくなったのね(No connection)」
    その通り。
つながるってことは、その前に『知っている』ということ。
知らないから関心がない。関心がないから人ごと。
人ごとだから観て見ぬフリ。結果、自分も無視される。
無視されているから何してもいい・・・

こんな悪循環が、犯罪や自殺(自死)を生み出す。
彼女は臨死体験の持ち主だ。それ以来『死』について
徹底的に研究するため、インドに留まり16年。
今では、人はなぜ生まれなぜ死ぬのかを知り尽くしている。
彼女の本を読んだとき、小説であるにもかかわらず
凄くリアルで、あっという間に惹き込まれた。
なぜなら、すべて彼女の実体験を基にしたストーリーだからだ。
「生と死を知る」ことは、人として最低限のことかもしれないと
最後の章を読み 納得した。
   
生まれ出ずる者は誰でも、死ぬように創られている
だが、今日、人は死に理由を求める
にもかからわず、誕生の理由を知ろうとしない
我々は、人が死ぬと必ず何故、どうして、と問う
だが、何故、生まれるのか尋ねることはない
人の死の原因を知らぬように、
我々は、人の誕生の原因を知らない
浅はかな目的のために
我々は、人が事故や病気が原因で死んだと思う
だが、これは違う。
死は、誕生のみに、その原因があるのだ
誕生が、死の理由と悟ったなら
我々は、死を残念には思わないだろう
人のあらゆる恐れのうちで
死への恐れが、最も凄まじいと同様に、最も愚かだ
何故なら、誰しも死を免れないから
誕生の過ちを犯してしまったのだから・・・

この本で、襟を正して真剣に生きようと思った。

刺激

南インド人の足の指は開いている。
それは、ジャンケンポンのパーである。
特に親指と人差し指(足でもこう呼ぶのか?)が
大きく開き、各指もまっすぐ伸びている。
パーっと開き、すらっと伸びたその指で、
大地をしっかり「掴んでいる」
裸足で砂利道、山道、茨の道を歩くのだから、当然
足の裏は “ゴムぞうり” のようになっている。
火のように燃えている寺院の石畳も、優雅に颯爽と
歩きながら、横で飛び跳ねるわたしを笑う。
ご存知の如く、足裏は身体ツボの集積である。
現代人は、ここにお金をかけてまで刺激し、健康を維持する。
インド人は毎日天然リフレクソロジーを受けているようなもの。
だから概して健康である。これがスパイスたっぷり激辛カレー
を平気で食せる秘訣かも。
わたしの足はグーである。
各指はクシュっと丸まりくっ付き合っている。
それでもむかしは裸足になることが多かった。
どこでかというと、田んぼである。
子どもの小さな長靴なんか、履いてたって泥が容赦なく
入ってくる。だったら最初から 『泥んこだらけ』 を選ぶ
ほうが賢い。
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9月に晴れが続いたので、お父さんトコの稲刈りが早まった。
日程変更できなかったわたしは東京に留まり、可能な助っ人
たちが急遽長野に直行した。
2歳の子を持つ母親は、見学だけして帰ろうと思ったら
子どもは裸足で田んぼを駆け回ってた。
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稲の切り株、石ころなどの危険地帯は、都会育ちの子ども
にとっちゃあ ワクワクするよな遊び場だ。
ケットラの後ろに置いといたって、3分とじっとなどして
いない。こんな冒険めったに体験できるもんじゃない。
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それに引き換え、鎌など持ったこともない若者助っ人は、
直前大雨の影響で倒れた稲を、機械が入らず手作業
するはめに・・・
刈って、束ねて、結んでと、このIT時代に超アナログ作業
ときたもんだ。
本来機械がすべてやってくれるので、刈られた稲の束を
はぜ掛け(物干し竿みたいなところに稲を掛けていく作業)
すればいいだけ。作業としては大したことはない。
と、聞かされてやってきた助っ人たちぃいい。
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         だ・ま・さ・れ・た・・・・
いつもは机に向かってパソコン触っている生活から、
突如、自然相手の肉体労働に。
彼らが手伝える土日だけ、雨が止み作業ができることになった。
しかし、長雨の影響が作業に負荷をかけている。
まさに、仕向けられた課題のようである。
「世の中そんなに甘くはないよ」 と言わんばかりだ。
裸足で歩き、自然と調和して生きてるインド人や
農家たちは、いつも大自然と闘っている。
そんな 『刺激』 があるからこそ、より鍛えられる
というもの。
危険から離れ、守られた環境で生きてる都会人には、
こんな『刺激』 こそが、今後の激動時代を生き抜く訓練
となるに違いない。
これに懲りず、次回も応援 お願いしますね!!
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