わがままな 友人たち

親しい友人たちは、わたしに似て(?)言いたいことをいう
わたしがそうさせたのか、彼らの性格なのかは、微妙。
以前、姓名判断で名前を変えたとき、一番の親友に
「今度から新しい名前で呼んでね」と、リクエストした。
い、やだ! あなたはあなた。名前なんかで変わらない
   あ、そう。 あなたに一番呼んでほしかったのに
また、「ブログ更新遅い!」と言った友人は、最近
刺激の少ない日本にいても真面目に書いていると
「どうせ三日坊主だろ?と思ったが、なにかあったんでしょ!!
   ・・・・ その通り
   さすが友よ、わたしのこと よくわかっている
ちゃんとした文章を作らなければならないサイトの
更新記事に、四苦八苦している「息抜き」である。
そう、プレッシャーという刺激から、ブログは
好き勝手なこと書ける逃げ場として最適なのである。
それはいいとして、書かなきゃ「遅い」と催促され
書けば「どうしたの?」と疑われる。
ホントにわたしそっくりな人たちだ。
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サクサイワマン Sacsayhuaman インカの要塞
この感じたこと、思ったことをちゃんとした言語で
伝える作業というのは、意外に簡単ではない。
人は「感じ」「思って」「行動」する生き物。
これがバランスよく整っていると、感じたことを頭で
解釈して、適切な言葉で相手に伝えることができる。
これが崩れると、①感情を抑えるか、巻き込まれる。
この時点で思考回路まで届かず行動に出る。
また思考段階まで行くと過去のフィルターを通すため
②考えすぎか、歪んだ思考となりがち
その結果、③とんちんかんな行動か、
“なにもしない” という選択をとる

③の行動(言葉で伝えること含む)まで至らないと
相手には伝わらない。
また、①の感情に左右された行動は、誤解を招きやすい。
例えば、遊んでいていきなり「うるさい」と怒鳴られた
子どもは、なにが起こったのか、理解に苦しむ。
「うるさい」だけだと、子どもの存在そのものがウザイのか
なにをもって「うるさい」のかが不明である。
「仕事で集中しないといけないから、君の声がわたしの
集中力を阻害するんだよ。少し静かにしてくれないかな?」
このように
「わたしはこう感じる、で思ったのだが、こうしてくれないかい?」
という具合に、自分が「感じ」「思って」「行動」
促すパターンで伝える。そして「わたし」が感じて
いることが重要で、あなたの存在がうるさいのではない。
実際、子どもの声に慣れてる母は、なんとも感じないから。
感じて思うだけで、何も行動しないと悶々とするし
よく考えないで「行動」しても、中途半端になる。
といっても人は、感情タイプか思考タイプか行動タイプ
に分かれるようである。
これは
   感情的にならなければ、
   片寄った思考にならなければ、
   行動するばかりにならなければ、

単たる、特徴ある個性である。
重要なのは、コミュニケーションの時 きちんと相手に
伝わるよう、3つのバランスを取ることだろう。
きっと次、友人と会うときは 「わたしの悪口ばっかり書いて!」
と言われそうだ。そのときは、
「あなたが読んでくれてると思うから、ブログが書けるんだよ!」
と言い返そう。
わがままだけど、大切な友人だ。

こだわり という苦

   インドの子どもに、そのオモチャあげていい?
姪の家族が遊びにきてたので、3歳の子に聞いてみた。
もちろん、イジワルなわたしの遊びだ。
ひとりっ子の孫は、すべてのオモチャは自分のモノと
思っている。当然ながら戸惑う。
横で見ていた父親が、わたしのいつものイジメが
始まったと、さっそく子どものフォローにかかった。
「インドの子どもはパパもママもいなくて、
オモチャも持ってないから、あげてもいいかなって」
と子どもに説明。すると、理解できたのかどうか
「いいよ」 素直に答える子ども。
「じゃ、これもいいかな?」 さらにイジワルなわたし。
「う、うん、あげてもいい」 妥協する子ども。
   かわいそうに・・・
しかし、姪の家族が帰るとき、孫はすべての
オモチャを袋に詰め、ひとつも残さず去っていく。
本心はわかってないし、この年齢でわからせる必要もない
わたしの遊びに付き合わされた、迷惑な子どもというだけ。
ただ、おもしろかったのが、この子がどこに行くにも
持ち歩いている、象のぬいぐるみお気に入りミニカー
両方を要求したとき。
顔は見る見る困った様相に。う~ん、と唸ったあと
「こっちだったらいい」とミニカーを差し出した。
そして「象さんよりこっちのほうが、マシだから」
みたいな言葉を添えて。
   へぇ~ 3歳でこんな比較 するんだぁ
あ~ おもしろかった!
遊び終わり。
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人は、生まれおちてからずっと、こんなことをやっている。
いわゆる「好きなもの」→「いつも一緒」→「手放せない」
という、執着、とらわれ、こだわりの繰り返しだ。
これが強くなると、状況が一変したときすごく苦しい。
じゃあ、好きにならなければいいのか、こだわりの
ない、つまらない人生がいいのか?
善い悪いではなく、好きになり方、こだわり方があるようだ。
例えば、大好きな食べ物を毎日食べたいと。
しかし、それが手に入らなければ、苦しい
それを「あれば食べたいが、なくても平気」にしておく。
例えば、恋人との関係。好きでいつも一緒にいたいと。
相手の出張や、仕事が忙しくて会えないと、辛い
状況次第では、それにこだわらず、ひとりでも
楽しめるようにしておく。などだ。
つまり、流れに逆らわず、来た状況に臨機応変に
対処できる『ホンモノの自由』を身につけること。
世の中便利になった分、【変化】に対する防御策で
あふれている。だから「こうでなきゃダメ」が、まかり通る。
旬にしか食べられなかったものが年中市場にある。
外国でしか手に入らないものでも、ネットですぐ入る。
恋人がいなくても、それに代わる産業が渦巻いている。

これでは「なくても平気」という訓練が、できにくい。
すべてが永遠に続くのならこれでいいのだろうが、
いつか崩れ去る【無常】を抱えているのだから。
そして何より、こだわりを追求する生き方がカッコイイ
思い込んでいる。それは、コツを得ている場合だけ。
このこだわりが、世界の破壊的状況を作り上げている因
になっているというのに、「こだわり」人生の奴隷と化すため
人は、日夜あくせく働くという、まるで道化師のようである。
『不自由』 という目に見えない罠に陥らないよう、
いつも心身は身軽にしておきたい。

日本国籍という 宝

   え! 世界一周するフライトが たった30万円なの?!
もちろん航空券のみ。
にしても、初めて知った情報。釘付けになった。
   チケット有効期間は?
   訪問国数の制限は?
   経路変更は自由なのか?

そもそも世界一周って、いったいどのくらいの日程で
行けるものなのか?
調べてみると出てくるわ、出てくるわ。
こんな情報、今までわたしだけが知らなかったのか?
だとしたら 『くやしいーーーー!!』 ということで
クイズのように皆に聞きまくった。
   知ってる? 世界一周の・・・
まず、「99万円」が多い。
それ、ピースボート。船だから。
たいてい、「ウン百万円?」 が多い。わたしもそう思ってた。
そして、少なくともわたしの周囲で知っている人は
いないということがわかった!
ちょっと安心。 → なんちゅう性格・・・
世界一周なんて、ハナから興味のない人にはわからない
でしょうが、わたしが高校卒業したての頃、歌手の庄野真代
が世界一周した旅行記本が出版された。そのときから
肌身離さぬ、わたしのバイブルとなった。
移転の都度 連れ歩いた本が、いつしか色あせていった。
今では何をきっかけに、その本()を手放したかも忘れてしまった。
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「南米にまで来る人は、皆、ある目的意識をもって来るのよ」
リマの宿の女将がそう言っていた。
サンダル履きで気軽に出かけられる、東南アジアとは
覚悟が違うと。→ それは同感
特にこの宿に泊まる客層は、ツアー旅行者ではない。
ガイドなしの個人旅行者が多い。
わたしも今回の旅は、さすがに甥っ子に生命保険証
のあり処を教えたほどだった。
「あとは世界一周している人たちね。今、安いからチケット
   や、安い・・・
意外な言葉に身を乗り出した。
で、数字を聞くや否や、上記の言葉が口から飛び出した。
ひさびさのヒットだった。
南米最後の夜に、こんな上質なプレゼントが
降ってくるなんて、小躍りしそうになった。また
多くの人が世界一周している事実にも驚いた。
インドで出会う日本人で「世界一周している最中」
なんて方に、今までお目にかかったことがない。
さらに、話はここで終わらなかった。
「日本の国籍を持っているということが、どれほどのか!」
リマの女将は声を大にした。
わたしたちは夜通し話をした。日本の現状、ペルーの実態、
今後の世界がどうなるか、そしてわたしたちに何ができるかと。
ペルーの貧困層の人々は、どんなにそこから抜け出したくとも
「為すすべ」がない。働きたくとも場がない、あっても日当
450円くらいにしかならないと。ただ、じっとうずくまり、
家族で肩を寄せ合い、耐えるしかない。
それに比べて日本の貧困層精神的な、という意味)は、
意識さえチャンジすれば、そこには『チャンス』という扉が
いくらでも開かれている。
日本人が海外に行こうと思ったら、全世界どこでも通用する
黄金のパスポートが自動的に与えられる。働こうと思ったら、
職を選びさえしなければ、なんとか見つかる。
なにより、最低限の賃金は確保できる。
女将が、ペルー国籍を有するご主人と日本に戻るときは、
経由地であるアメリカに夫は入れない。なので、夫婦別々
の通路を通され、奥さんは出入国管理事務所で手続きし、
ビザが下りない夫は、鍵つきの個室で24時間軟禁されると!
だから日本着が、いつも別々の時間だと聞く。
こんなことを知り、世界一周格安航空チケットで舞い上がって
いるわたしは、なんて脳天気かと、神妙な面持ちになった。
すると女将が
「あのね、ラテンの貧困層の人たちは、そんな深刻じゃないから
明日は明日の風が吹く。どうにもならんことに、いちいち憂えないと。ただ、
あなたは日本人に生まれたこと自体に感謝しなさいよ、と言われた。
どこに「うまれる」かも、偶然ではない。
自分で選んでくるというスゴイことをやってのけたのだから、
この人生も、自分で自在にコントロールできすはず。
『世界一周』 なんて、したいけど自分の人生にはあり得ないコト
と決め付けないでほしい。どんな奇跡が起こるやもしれないから。
だって、「うまれて」きたこと自体、奇跡なのだから!
わたしの世界一周 心の旅が、20年ぶりに甦ったようだ。

デジタル時代の弊害

ここ2日間、連続で電車の乗り換えミスをしでかした。
なじみのない場所へ行くときには、電車ルートと
所要時間をあらかじめ調べる。
以前はアナログで地下鉄や電車路線マップで確かめた。
すると、否が応でもどこの駅を通過して目的地に
着くか目に入る。
しかし今は、デジタル時代だ。ネットで検索すると
最短の路線と所要時間がはじき出される。
表示されるのは、出発点と目的地、乗り換えが
あれば、その駅と時間だ。
そう。途中の通過駅は出てこない
大雑把なわたしは、表示された時間と駅のみを
頭に入れて、出かける。
いざ乗換駅に着くと、さて困った。
目的地はわかっていても、それが「○○行き」
覚えちゃいない。まして途中通過駅名など皆無だ。
だいたいのカンで飛び乗る。怪しいと思うと車内の
路線図で確かめるが、確信犯のときは、目的駅名が
いつまでも放送されないことで、やっと気がつく。
アナログ路線マップで全体像を見なくなった弊害だ。
目的地は地図のどの辺りで、周辺にはどんな駅が
あるか、遠目で把握しておくと乗り換えもスムーズだと。
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これは、我われの人生目的にも言えること。
自己の決めた目的地のみに焦点を当ててると
周囲の景色が見えず、ざわめきも聞こえてこない。
人間には耳が2つ、目も2つ付いているが、懸命
になればなるほど、目は寄り目、耳は必要なことしか入らない。
周囲からの重要なサインが見えない、
聞こえない、感じなくなる。それどころか1つしかない口で、
自己主張ばかりするようになったらおしまいだ。
わたしは、
   スピーディーな中にも、慎重さを
   客観的に、今に集中しよう

とよく言う。すると 「矛盾してるよね?」 と。
目標を掲げ、目の前のコトに集中し、やることやったら
あとは忘れる。すると、だんだん見えてくる。
これは、デジタル時計より、アナログのほうが時間を
全体像としてイメージでつかめるから、ブレーキの“遊び”の
ような余裕に似ている。
例えば、タイムリミットまであと10分と。
17:50と無機質に表示されるデジタル時計より、
180度にピンと伸びた針が、少しでも傾いている感覚は、
なんだか 『に応援されてる気がする
みたいな余裕だ。
なにをやるにしても、きゅっと焦点を絞ったら、
ふっと放してちょうど良い感じにしておくと。
でないと、見えない、聞こえない、感じないうちに
目を覚めさせられるイベントに遭うコトになりかねない。
「こうしようと一筋に思う心こそ、人が誰しも抱える病である。
この病を必ず治そうというこだわりもまた病である。
自然体でいること、それが剣の道にかなう、
本当にこの病を治すということなのである」

  江戸時代の剣士 柳生宗矩 「兵法家列書」 by NHK
以前は武道家が極めた境地を、今では一般庶民が
求められる複雑な時代になったといえよう。
しかし、そんなウルトラC 誰ができるかって?
そういうわたしが、誰よりも不器用なのだから、今後も
知らない所へ行くときは、30分早く出ることにしときます。

失礼な文句

インドに通いはじめたころ、彼らの行動に腹を立ててばかりいた。
    お釣りをごまかす売人
    人の水を勝手に飲む友人と、人のモノを黙って使う見知らぬ人
    勝手に自分の親族を便乗させるタクシードライバー
    列を作ろうとしないキップ売り場での修羅場
    列があっても平気で割り込む知識人
    時間通りにやってこない列車とバス、そして人たち

数え上げたらキリがない。
数年たつと、慣れるもの。怒りもだいぶ収まった。
この怒りは 『日本流』 からはみ出る “理解不能” からきたもの。
インド流』 が理解できたら、受け入れ、穏やかになった。
モラル」で測る日本人と、「死活問題」で行動するインド人。
この背景が戸惑いを打ち消し、怒りを鎮める。
一緒に仕事をする彼らは、わたしを「電撃的カミナリを落とすが、
その後ナニゴトもなかったように平和になる女」
と呼ぶ。
一瞬、理解不能なできごとに遭遇すると、先が見えなくなる。
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あるときインドで寺院参拝中、外で脱いだビーチサンダルが盗られた。
たかがゴム草履、されどここでは必需品。
さっそくガイドに購入先を探すよう依頼した。
しかして、連れていかれた先が、高級靴屋さん。
店内に入ったとたん、立ち止まりもせず店を出た。
ガイドに「次を案内して」、とだけ伝えた。
またしても似たような靴屋。
    もう、ぜんっぜんわかってない!!
ついにガイドを責めた。
なぜ 『ゴム草履』 を売っている店に案内しないのか!?
「マダム、落ち着いて座わりなさい。
まず、どんな履物が欲しいのか、店員に述べてみなさい」
I want to purchase just a pair of RUBBER slipper.
    ただのゴム草履がほしいだけ・・・
「かしこまりました、マダム 少々お待ちください」
店員は深く頭を下げ、店裏に姿を消した。
しばらくして厳かに、高級店らしく靴箱をいくつか持参してきた。
これを見てまたガックリ。あれほどビーサンって言ったのに!
「これなどはいかがでしょうか?」
店員がフタを開けた高級靴箱には、わたしが希望する
ゴム草履が納められていた!
 ・・・・・ あ、ありえない光景
瞬間、頭に立ちのぼった湯気を、どう処理したらいいか困った。
いきなり急ブレーキはかけられない。
値段交渉や、どれを選ぶかと聞かれても、そんな余裕などない。
キツネにつままれ状態で、その高級ゴム草履を無言で買った。
店を出たあとガイドに聞いた。
なぜ、たかだかゴム草履があんな高級店にあるのか。
しかも、箱付きで。
「なぜ君のサンダルが盗まれたと思うか? 
           ここでは、それが高級品なんだよ」

こうやって、わたしの「勘違い」による怒りの鉄拳が
インド人たちに飛ぶ。右往左往しながら、わたしに付き合う彼らに、
我が身の行動を恥じ「すみません」と謝る。
「知らない」という過ち。
これは、宇宙の基本法則を知っていると、例えば自然現象に
文句を唱える人などいないのと同じだ。
昼間楽しく遊んでいる子どもが、どんなに続けたくとも夜には
家に帰らなければならないことを知っている。
「なんで夜が来るの!! ずっと明るいままでいて!」
なんて、子どもでも言わない。
これは誰でもが受け入れる自然現象で、目に見えて
理解できるコトだから。
しかし、宇宙原理で目に見えないルールは、山ほどある。
それを知らない、理解できないことで、どれほど大宇宙に
向かって失礼な文句を言っていることか。
  わたしは好きで生まれたわけじゃない
  親は選べない、勝手に産んだくせに!
  こうなったのは、アイツのせいだ
  なぜ、わたしにばかり理不尽なことが起こるの?!

・・・・無智の極みだ。
これがどれだけ自己と周りを苦しめていることか。
いや、それ以上に宇宙を敵にまわしていることになる。
我われが計り知れない原理原則を受け入れるようになった段階で、
今までの事態が一変するやも知れぬと思うと、
なんだかこの世も、まだ捨てたもんじゃない。
力を抜いて、頑固にならず、ヘラヘラ生きていこう
原理を知ったあと、わたしのように恥ずかしい思いをせぬよう
「なぜそれが起こるのか?」と、ちょっと足を止めてみるのもいいかも。

人事を尽くして天命を待つ

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昨年に続く、今年の東大研究博物館にて開催されている
イベント 『火星』 ~ウソカラデタマコト~ のちらしを、
知人が7月、持参してきた。
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/exhibition/2010MARS.html
http://www.asahi.com/science/update/0727/TKY201007270134.html
ちょうどその頃、TV番組でエジプト特集が放映されていた。
それを見ていた一緒にエジプトに行った友人が、
「やってるよ」と知らせてくれた。
エジプト古代の秘密を探る、みたいな特集かと思いきや
「ピラミッドとは、フリーメーソンの秘密基地であり・・・」
なんぞという、奇妙な番組だった。
そういうとらえ方もあるもんだと、怪しいながらも
興味深く見ていた。で、最後にレポーターが
「アメリカでは2015年までに火星移住計画を進めています」
と締めくくっていた。
この疲れきった地球タイタニック号に見切りをつけ、
新たな惑星に活路を見出そうとしているのか、単なる
宇宙科学的試みなのか、ひるがえって情報操作という
いつもの常套手段かは知るよしもないが、『火星
というキーワードが、ひとつのだとインプットされた。
今、世界が激動期の真っ只中にあるとき、どのような
“あり方” で生きていたらいいのか、ときどき考える。
まず知ること。で、手段を思索し、やってみる。
あとは、それを忘れて目の前のコトに集中すると。
わたしの指針のひとつに「人事を尽くして天命を待つ」がある。
ただ、もっと詳しく解説すると、
  宇宙の方程式にのっとり、人事を尽くして天命を待つ
     その後、忘れた頃に果報がかってに舞い降りてくる

というもの。闇雲に動いて人事を尽くしたつもりになっても
来る天命は悲惨である。 果報も 『期待』 しながら
寝ていては、いつまでたってもやってこないと。
7、8月の慌しい日々からようやく解放され、本日から秋だと
いうニュースが流れて涼しくなったので、さっそく火星展
足を運ぼうかと。
無料なので、みなさんも 是非!

完璧なシナリオ

あるエグゼクティブ・コーチが社長に尋ねた。
「経営で何が一番大事ですか?」
   最後は “直感” だね
大きな決断を余儀なくされる経営者の最終的武器が
肌で感じ、匂いを嗅ぎ分けて進む 【動物的カン】。
どんなに戦略を練っても、膨大な統計を取っても、
理屈では割り切れない領域がある。
ある意味それは、聖域なのかもしれない。
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昨日、とある方から問い合わせがあった。
「インドの○△□って、ホンモノですか? だとも聞くが」
そもそもどの世界でも、1のホンモノ(or まとも)には
100のが群がるというのが、欲深き人間世界の性。
また、すべてにおいてのインド物の真偽は、ヒト、モノ、
ハタマタ国に至るまで、どこまで冗談でどこまでが
聖なのか、判断つかないのはわたしだけではない。
「300年前から地中に聖者が瞑想していて、
     今でも夜中にマントラが鳴り響くんだよ・・・」

と、真顔で土に “埋まっている” 聖者のまわりを、
人々が夜通し、一緒に唱和するため、瞑想している。
とか、あるハンターがヒマラヤ山麓で狩りをしているとき
一頭のの足を撃ち抜いたと。血を流して逃げ去った
虎の後を追いかけていった先に人間がいた。
よく見ると足に怪我をしているので、声をかけたら、
「人間だと助け、虎だと君は撃つのかね?」
 ! と。
そんな話は、掃いて捨てるほどある。
なぜ、真偽の判断がつかないのか。
    見ている『次元』が違うから
次元をわかりやすく標高に例えると、地上に近いほど
人やモノが多いから、他との共通点も多い。なのでその
次元でおこる事象は理解しやすいが、欠点は価値観に
よって見えているものの見解が異なる。よって他と
意見がぶつかる頻度も高い。
では、標高が高くなるほど人口やモノが少ないから
共通項をシェアできる人も少なくなる。ただ、密度が
薄くなる分、人にもモノにもぶつからないという
自由度が高まる。しかし、空気が薄くなるので
訓練された人しかいられない。
さらに、次元が高いところからは低いエリアが見渡せる
ので、そこで起こっている事象は全体からよく理解できる。
その客観性により、正しくモノゴトを判断できると
そう。インドで起こる事象は、ある意味、高い次元で
行われているかのようで、彼らからすれは当たり前、
しかし、わたしの次元での理解は範疇を超える。
人は、理解できないものに遭遇すると、怖れをなす
なぜなら、自己保身という本能から。
それだけに留まらず、自己の次元(目線)まで引き下げ
恐怖を逃れるため、無理やりその範疇で理解しようとする。
スペイン人がマヤ、インカ帝国を征服したとき、生け贄
文明が理解できず、「野蛮人」「異端な宗教」でかたづけ
てしまったのと同じだ。
では、次元の差異から生じるものと遭遇したとき、
どのように判断したらいいのか。
    最後は、直感である
自分のフィルターを通して【真】と映れば、それは
ホンモノであって、【偽】と映ればニセモノだと。
両方正しい。その人にとっては・・・
要は、「幸・不孝などない、あるのは事象だけ」
しかり、「真偽などない、あるのは事象だけ」だと。
また、その直感に取り付かれると単なる『妄想』となる。
あくまでも(しるし)に過ぎない。それを目安に進んでいくと
いずれ真実か、それ以上進んでいいかがわかってくる。
そんなことを何度も繰りかえすと、直感の精度が高まり
迷いが少なくなるようだ。
この宇宙に起こるすべての事象は 『完璧』 であるという。
それは宇宙レベルの次元から見ると。意味のないことは
ひとつもない。大自然や愛くるしい赤ちゃん、破壊的な
テロ組織やこの天変地異だって、必要だからある
では、多次元層から覗いて映し出されるそれぞれは、
多次元の判断があって当然だ。ヒトラーがこの世から
特定の人種(ユダヤ人と身体・知的障がい者)を
抹殺しようとした背景には、この世に「必要ない」
と映ったのかもしれない。
そこでの善悪は、“宇宙次元”ではない。
インドのどれひとつ取っても刺激的なのは、こんな
背景からかもしれない。異なる次元を理解するには、
時間をかけて空気を共有するしかなさそうだ。
あとは、経営者同様、動物的カンだと。
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ペルーでの旅程をすべて終え、リマの宿に戻ったとき
「これで、あなたもようやくペルー入門編を終えたわね」
本番はこれからよ! と女将に言われた。
ペルーは観光だったにもかかわらず、まるでインド
での仕事を指折り数えてこなしているかのように、
苦行さながら緊張して過ごした。
まるで新参者が、インカの大地に足を踏み入れるのを
じっと黙って見られているようだった。
毎日、試されている気がした。
そう、わたしたちは瞬間瞬間、試されている。
すべてが完璧なシナリオで展開する舞台の上で
「コレハ ホンモノ デスカ ニセモノ デスカ」 と・・・
次元を上げる訓練を、そろそろしないとなるまい。

自慢の先輩

「8月分の子どもの写真、送ります」
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2009年に、生まれたばかりの子どもの支援を始めた。
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学童のスポンサーリングと異なり、5歳以下で亡くなる
子が多い途上国ならではの、衛生管理と栄養補給
を整える支援である。毎月届けられる報告の中に、
幼児の成長写真もある。
毎日会っていないからか、幼児の成長には目を見張る。
ひと昔前の日本も、幼児で亡くなる確率が少なくなかった。
だから、7~8人兄弟なんてザラだった。
子を育てたことのないわたしには想像つかないが
米国在住でわたしの大好きな先輩は、6人子ども
がいらっしゃる。この方には、今でも頭が上がらない。
下はオムツが取れた子から、上は大学生だと。
前回先輩にお会いしたとき、あることを聞いた。
   やはりアメリカって、18歳で家を出されるんですか
「そうよ。夫は長男が17歳のときから、自立して出て行く
準備をしなさいと
、そりゃ、当たり前のように言ってたわ」
これは、大学生でも親の仕送りでアパート暮らししている
日本人とは違い、彼らは自活するために家を出るのだ。
「でね、入れ替わりに孤児を引きとるっていうのよ。
彼にとっては当たり前の習慣かもしれないけど、
現場で育てるのは、あ・た・し なんだけどね!」
さすが、ノブレス・オブリージュ 【高貴なる義務】
文化圏ならでの会話だ。
http://giving-hands.jp/blog/wp-content/uploads/200902/article_2.html
ただ、先輩はキリスト教文化に育っていないし、看護師
なので、子どもがオムツが取れたら米国での資格を
とるため、勉強すると言っていた。これでは
子育てがエンドレスだと。
わたしが高校1年時の、器械体操部の先輩。
いや~、厳しかった・・・
このわたしの性格をガラリと変え、ナニゴトにも
立ち向かっていく姿勢を作り上げてくれたのは、
何を隠そう、この先輩なのである。
当時、自分の好きなことしかしない超ぉぉお我がままな
わたしを、決して思い通りにさせてくれなかった先輩。
わたしの性格をミゴトに読み取り、強み弱みを完全に
把握
しコントロールしながら、大会まで導いてくださった。
この先輩の存在なしに、今のわたしはあり得ない。
今思えば、当時から先輩は立派な子育てならぬ
魂育て】をしてらした。
こんな先輩だからこそ、6人のお子様を育て、さらに
孤児を引きとる環境まで用意されているのだろう。
その上、社会貢献できる看護師に舞い戻る準備までして・・・
とてもわたしには出来ない。だから今でも頭が上がらない。
高校時代と変わらぬ信念と、妥協しない姿勢は、
永遠に尊敬すべき良き師である。
こんな先輩に巡り会わせてくれたこと自体、天に感謝だし、
なによりもわたしの自慢である。
先輩から受けた一挙手一投足は、昨日のことのように甦る。
それをただ、お返ししたいと思うだけ。
先輩から受けたエネルギーを、今、必要としている
誰かに渡したいと。
そのホンの一部が、送られてきた写真の幼児に
少しでも届けられれば、それだけでいい。
先輩、また日本に帰国するときは連絡くださいね!!

楽しい不便

 
  は、ハッキリ言ってめんどうくさい
必要な荷物をパッキングし、重荷をかつぎ、移動地ごとに
バックを広げ、またきれいにパッキングしなおすと。
洗濯物は溜まるし、環境の変化に合わせるのに
時間かかるし、緊張によるストレスがある。
それ以上にやっかいなのは、宿まで自前の野外キャンプだ。
水道も電気も、風呂もないところで、蚊と闘いながら
寝泊りする。食事のレパートリーも限られる。
   なぜ、そこまでして出かけるのか?
旅は世界観を変えるだの、器を広げるだの、自然に触れる
野外キャンプは心身ともに浄化するから、って?
もちろんメリットが、「めんどう、やっかい」というデメリット
を上まらない限り、行動へとは繋がらない。
考えるに、情報汚染から逃れたいのかも。
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日本ほど、『おせっかい洪水』 があふれる国はない。
「発車しますので、どなた様もお席にお座りくださるか
手すりやつり革におつかまりください」
「バスが停止してから、お席をお立ちください」
「○○駅、○○駅。お降りの方は、忘れ物の
ございませんよう、お手回り品にお気をつけください」

公共の場所や駅では、ああしろ、こうしろ、ここが危ないと。
さらに、これを買え、あれはダメだの大合唱が鳴り響く。
しかも、これに違和感がないときている。外国にいると、
あまりにもアナウンスや看板、案内板がないので、戸惑う。
バスや電車で停まる場所が、アナウンスされるのは
当たり前と育ってきた日本人(わたし)は、黙って
停まる乗り物に、当初はアタフタしたものだ。
しかし思うに、自分の降りるところだけ把握して
おればよく、なにも人様が降りる場所案内を
いちいち聞く必要はないのだ。
ちゃんと座れ、忘れ物するな、降りる駅に着いたぞ」って
まるで幼い子どもが、母親に言われているようだ。
まして自分の意思とは関係ないところで、あれ買え、
これがいいなど、いい加減にせい! と言いたい。
インドのバスは、バス停に着いても 『停止』 などしない。
減速しているうちに、人々は走りながら上手に乗り降りする。
南米のバスも、もたもたしていたら昇降中でも発車する。
これが良いか悪いかは別として、降りたい駅があったら、
その前後に注意を払い、一緒に降りそうな人に
声をかけて確認する。
ぼ~っとしていたら降りそこなうし、人々もお互い
助け合う。こうやって機転という筋肉が鍛えられていく。
はじめはなんて不親切かと、サービス悪いと思ってた。
今では、甘やかし日本の過剰サービスが、生ぬるい
日本人を作り上げ、国外でのいいカモにされている
気がする。
リマの宿の女将が言っていた。
若い旅行者が「寒いですか?」と問い合わせてきた
ので、「寒いですよ」とだけ答えた。で、実際ペルーに
渡ってきたイデ立ちは、『Tシャツ』姿だったと。
寒い→防寒具が必要→持参する、という発想まで
至らず、「寒いから、ジャケット持参くださいね」まで
言ってあげないと、どうしていいかわからんと。
日本の乗り物案内同様、お母さんになんでも
用意してもらう、過保護状態が作り出す悲劇である。
この情報洪水で染み付いた波動を、旅と大自然の波
で洗い流したくなるのだろうか・・・
めんどうなパッキングや、限られた不自由な食事は、
楽しい不便』 の名の下、どんなに不合理で時間
がかかろうと、やり過ごせてしまうから不思議だ。

趨吉避凶(すうきちへききょう)

日本不在だったので、定期的に通っている
整体に久しぶりに行ってきた。
「しばらくぶり、調子はいかがですか?」
   南米に行ってまして、ちょっと時差ボケです
「あ、それはね、磁場ボケもあるから、よく歩いてください」
   ! なるほど、磁場ね・・・
時間磁場高度差が、一週間かけて調整されている
らしく、2日前からがおかしい。
3600m級の高地から平地に降り、12時間の時差と
地球の真反対の磁場に降り立った翌日から、仕事を
タイトに入れ、夜まで勤しんでいた。
ホッと一息ついた頃、耳鳴りと、高度差時に起こる
イヤプレーンのような感覚に襲われた。
耳のことなら、うちには専門家がいる。→ 甥っ子
   耳が変なんだけど、耳に入れる液体薬ある?
「え? 耳垂れでも起こしてるの?」
   いや、痛いのさ
「じゃ、必要ないね」
リッパな耳鼻科医さながら、わたしを診断していた。
心配なら耳鼻科に行け、と・・・
それはイヤだと言いつつ、耳の不具合を訴え続けたら
「人生の半分、耳鼻科に通ってる俺はどうする!!」
と嘆きながら、中耳炎なのか、ただの炎症なのか
症状を聞き出し、彼なりのアドバイスをくれた。
で、最後に一言。
「俺はもう、中耳炎になる直前に察知し、治す方法を極めた」
    んなこと、できるのか?
詳しく聞いてみた。なんでも中耳炎とは、鼓膜の奥の
中耳に炎症を起こし、その膿が鼓膜を浸透して外耳に
出るとき、ものすごく痛みがあるのだと。
何度も小さいときから中耳炎で悩まされている彼は、
なる直前の体調の変化を察知できるまでになっていた。
耳も鼻も口もつながっているので、その体調の変化直後
膿が鼓膜を浸透する前に、鼻から膿を引き出し、口にまで
誘導してしまう
という。
この 『』 を習得することにより、それ以来 『痛み』 から
解放されることになったと、勝ち誇っていた。
厳密に言えば、「治す方法」を見つけたわけではない。
中耳炎とは一生付き合っていかなければならない、
彼の弱点である。その弱みが出たときの「痛み」を
避ける方法を極めた
、というだけだ。
また、彼の身体には、その弱みがあるゆえに、
ムリをすると耳が信号を送ってくれるという、便利な
身体調整アラーム装置』が備わっている。
画像

道教には 『趨吉避凶』 という言葉がある。
凶を避け 吉を受け取る」ということ。
これは “福はうち、鬼は外” 的単純な、
悪運を避け、幸運を呼び込むということではない。
それには、ちゃんとルールとコツがある。
たとえば台湾の会社や飲食店では、拝好兄弟
(パイハオションティ)という供養を見かける。
これは、客足が鈍ったときに、やる習慣だと。
「好兄弟」とは、無縁霊のこと。拝=施し。
つまり会社や店で、これでもかという食べ物を
目に見えない霊に施し、その代わりに、お客さん
を連れてきていただく、という一種の取り引きだ。
これで売り上げが実際上がるというから
今でも経営者にとって馴染み深い行いだという。
また、事故に遭う、怪我をするかもしれない運勢が
予測できるときは、その前に 『献血』 に行くと。
これは、前述した「痛みの選択」のことだ。
http://giving-hands.jp/blog/wp-content/uploads/201004/article_4.html
つまりルールとは、原則的に吉凶は避けられない
ゆえに、『』は逃げまどっても、先送りするだけ
ならば、あらかじめどんな吉と凶を受けなければ
ならない運命にある(天気予報のように)のか知り、
それを甘受する「やり方」にコツがある。
できるだけ凶のダメージは軽減し、吉の喜びは持続
させる
方法を取ることが、効率よい生き方だと。
もちろん、嵐とわかっていて無防備で泳ぐ選択(早く垢は
落とせるが底にも落ちる可能性あり)もあれば、どうしても
航海せねばならぬなら、完全防備で出航するのか、
ハタマタ休航するかどうか、最終的には『クリヤマナ』
という自由意志
が決めること。
古代の賢者は宇宙のルールを理解していたから、
エネルギー保存の法則』でそれをコントロールしていた。
それが、苦しみは他の方法に転換し、 → 軽減
喜びは他にも分け与える、ということ。  → 持続
それには、自己の弱み強みを知り、その強みと弱み
勢いの時期を知ることが、極めて重要なのだと。
それを賢者は 『』 に聞いていた。
なんでも与えられ、恵まれた身体と環境がいいかと
いうと、宇宙のルールを無視することで、その状況
が一転するかもしれないのだ。
それよりも、少しぐらい不具合があったほうが、智慧が
働きどんな事をも乗り越えられるが身につく。
インド人が数学得意なのは、理由がある。
「だまされないよう暗算」する術が、生き延びる道なのだと。
甥っ子の中耳炎克服法を聞きながら、つらつら
こんなことを感じた。