いかにもインドらしい!

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      チャンドラヤーン 1号
チャンドラヤーン1号という月探査機のロケットが、
インドで10日22日発射。
インド滞在中に知り、当日の新聞をみたら、
いかにもインドらしい光景が目にはいった。
このチャンドラ(月)ヤーン(ヴィシュヌ神)の発射祈願として、
【ティンガラール】という “月” を表す寺院での祈祷模様が
記載されてた。
星の国、インド。
特にインド占星術においての【月】は、誕生星座や太陽の
位置が重要な西洋占星術とは異なり、生まれた日時の
天空の月の宿が、もっとも人生を左右する。
古代から深い縁のある天空に、初めて地上から探査機を
打ち上げるこの瞬間、月神の寺院で祈りを捧げる関係者
が、最先端のテクノロジーを操る宇宙開発機関の方々という、
ナンともインドらしい光景である。
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       ティンガラールでの祈祷
イギリスから独立する1947年のとき、独立時間をインド占星術で
決めたくらいなので、きっとインド政府のことだから、今回の発射
日時の決定も、占星術で算出したに違いない・・・

ラマダーン 万歳! その5

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「イスラム教のクルアーン(コーラン)は、聖典というよりも、
人が幸福に生きていくためのルールなのです」
と述べる、ヨーロッパ諸国に仕事で移り住んだことのある
エジプト人ガイドが、フランスの法律は、クルアーンのルールと
よく似ていると分析していた。
その真意はともかく、イスラム教に限らず他の宗教経典にある
どの教典(基本となる書)にも、『いかにしたら幸福に生きられるか』
を説いているものが少なくない。
どのレベルの幸福観かによって、異なる内容のようにみえるが、
基本原理は共有しているように思える。
その主なものがラマダーンのような『戒律』である。
仏教の五戒
ヨーガの禁戒・勧戒
モーセの十戒
イスラム教の五行

などが挙げられる。戒律というと、なにやら校則を思い出してしまい、
破ると罰則”のようなイメージだが、あくまでもこれは“戒め”
として自己を律するためにあるようだ。
つまりそれを全うすることで、弱い人間が悪の道に反れないよう
守ってくれる城壁のようなものと考えられている。
その戒のなかでの共通行為のひとつに『与える』– Giving – 
というものがある。
喜捨
布施
チャリティー
寄付
積徳

言葉は違えど、みな “与える” という行為。
キリスト教の聖書では、『年収の20%の寄付』が謳われ、
仏教の六波羅蜜では、いの一番に『布施』が掲げられる。
イスラム教のクルアーンでは、『年収の2.5%の喜捨(ザカート)』
が義務的に示されている(任意の喜捨もある)。
宗教ではないが、やはり人がいかに幸運に生きていくかを
学べるオーソドックスな【交流分析】という心理学では、
人の “こころ” は5つのパーツで構成されるといわれている。
こころの構造である5つの自我状態がバランスされることで、
こころの安定が得られるのだと。
そう5つのなかの『NP:Nurturing Parent』の特徴が、
【やさしい 思いやりがある 人の為に尽くす】ことにあたる。
つまり“与える”人というカテゴリーである。
また、中国での古い格言には、幸福になる開運五箇条に、
【1:命、2:運、3:風水、4:積陰徳、5:唸書】がある。
ここでもやはり“与える”こととして 『積陰徳』 が挙げられている。
陽徳ではなく陰徳(だまって善いことをする)というのが、
古代から重要なカギらしい。クルアーンの喜捨も同様に、
陰徳であることが大切だと、エジプト人ガイドが説明していた。
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こうして全世界共通の幸福概念を見てみると、どうしたら
“こころが満たされる”=幸福になるかが、おのずと見えて
くるようだ。
もう、お分かりであろうか、【こころの渇き】を癒す道が。
不安・怖れがあると、そこから自己を守る体勢が出来上がる。
防御のために何かを得る(あるいは手放さない)ことで、
不安・怖れが解消されるかのように見えるが、実は『得よう』
とする行為以前に、『与える』という行為が先であるということを、
古代の賢者は教えてくれている。
これはヨーガの呼吸法と同じで、吐くことに意識を向けると、
自然に呼吸は入ってくるのと似ている。
まずは、欲しいと望む前に、自分は他に与えているだろうか?
と、自問自答してみることだと。
これが、あらゆる思想の総合的【道】タオであり、物理学でいう
ところの【エネルギー保存の法則】なのだと思える。
そう、わたしが20年前にした【あること】とは、この“与える
ということだった。これは別の観点では “手放す”ということ。
具体的には
スリランカの貧しい男の子を継続サポートしていた
いらないものはどんどん捨てた
欲しいものは、まず人にあげた
感情のこだわりを手放した

まず先に出すことに専念したら、自然に入ってきた。
今までは、受け取ることを先に意識していた。だから受け取れない
状態に不足=【こころの飢え・渇き】を感じていたのだと。
そして気がつくと、放出こそ喜びの日々に変わり、自律神経
調整のためにモノを無闇に買いあさることがなくなっていた
ということである。
ふ~ ようやく【ラマダーン 万歳!】シリーズが終わった。
エジプトという色濃い古代史の影響で、少し思想がかって
しまったが、チャリティ現場に【宗教・思想】なしでは
臨めないのが現実だと、ご理解いただけたら幸いです。
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ラマダーン 万歳! その4

間があいてしまったが、「その3」のつづき。
【こころの飢え・渇き】って、早く言えば【不満足感】のこと。
つまり、欲求に対して不足を感じている“こころ”の状態である。
不足を感じているときの人間は、不愉快な思いでいっぱいだ。
希望、欲望、期待が思い通りにいかないと、人は
不安
焦り
悲しみ
怒り
イライラ
怖れ
落ち込み
自己防衛
闘争意識

などの感情がつきまとう。
この感情にともなう精神状態はみな“緊張”である。
緊張すると自律神経の働きで交感神経優位になり、一時的に
血液を全身に行き渡らせ、筋肉を緊張させ、脳からはアドレナリン
がドバーっと放出される。
これは、狩猟生活だった太古の昔から身につけた、重要な
身体防御作用でもある。
しかし、現代社会で慢性的なストレスにさらされ、逃げ場もなく、
さらに上記のような感情に苛まされると、筋肉は緊張し続け、
血流は減少、身体にも“こり”が生じる。
これがもとにもどされることなく、交感神経という警報が
鳴りっぱなしになると、自律神経のバランスが大きく崩れ、
ついには心身症になってしまう。
そこで人は、この緊張状態から解放されるべく、
飲む・食べる
アルコール依存
遊ぶ
モノを買う

などの行為に走る。
なぜか。
これらをしているときは、楽しいし、リラックスできる。
この副交感神経優位状態にすることで、一時的に緊張状態を
形成しているモノ・コトから離れることができる。
要は【ストレス発散】である。しかし、このメカニズムを知ったなら、
それらの解消法は、発熱時の解熱剤のように、原因を消去しない限り、
一時的に過ぎないということがおわかりだろう。
では、どのようにその根本である【緊張癖】から抜けだすことが
できるだろうか?
そう、これは単なる【くせ】である。癖というものは、生活習慣病のように、
別の習慣を身につければ変わるものである。
ビジネスに明け暮れていた20代のころのわたしは、
まさにこの【くせ】の罠にはまり込み、モノを買いあさっていたものだ。
しかし、あることを行なうことで、まるで氷が解け、目の前の霧が
晴れたかのように、その習慣がピタッと治まっていったのである。
では、その【あること】とは・・・
つづき・・・

子どもの権利

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「これ、なんですか?」
ここに来るたびに、みんな必ず聞くんだよね~ 
と、三大ピラミッドのあるギザ駅に降り立ったところにある
看板を指差し、エジプト人ガイドは説明しはじめた。
ちょうど今年の2月、エジプトの法律が変わり、“子どもの権利”
が守られるようになったという、プロパガンダである。
家庭内虐待
学校内暴力
薬物依存
無免許運転
少女の割礼
身体障がい児
児童労働
ストリートチルドレン

このような児童・行為を見かけたら、即、連絡ください、という看板。
インドでは 『チャイルドライン(子ども救済電話)』 なる、日本で
言えば110番のような無料でかけられる電話番号がある。
上記のような児童・行為をみかけた国民がチャイルドラインにかけると、
身近な施設やNGOが対応する。その洗練されたシステムはミゴト
なもので、日本における有料チャイルドライン、それも全国統一
されていない番号で知名度の低いものとは大違いである。
イスラム国に足を踏み入れるのは初めてなので、その国の子ども
事情には興味津々だった。
旧約聖書を母体とするキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の基本理念
は共通しているものの、枝分かれした現在の思想は兄弟喧嘩のごとく
相反している。
しかし、キリスト教圏でよくみられる 『強きものが弱きものを援ける』
精神は、ここイスラム教圏でも同じであった。
今まで国民の暗黙の了解で、思想上守られていたかのような
“子どもの権利” だが、現実は100%でないため、法律で規制する
ことになったのであろう。
とはいえ、インドでは、どこかしこにでも存在するストリートチルドレン
やホームレスの人々を、ヒエラルキーのあるヒンドゥー文化とは
打ってかわって、ここエジプトではほとんど目にする事はなかった。
日本に置いての 『市民セクター』 代表みたいなNPO/NGOの役割を
ヨーロッパではキリスト教徒たちが昔から担ってきたと言われている。
それは兄弟思想のイスラム圏でも共通するものがあるのだろうかと、
エジプトの現実を垣間見て感じた。