緊張から解放へ

「今、ちょうどの終わりなので蚊も発生しやすい
    もう少ししたらに入るから、それまで我慢ね」
蚊に刺されたわたしの足を見て、南インドの
マタジがシッダ薬を塗ってくれた。
やはり、ここは冬が終わると夏到来という
「二季」であると。
とはいえ、日本で経験するとは異なる。
南インドでの両季節は半袖で過ごせるが
夏は汗をかき、冬はかかない。
ただその違いだけ。
しかして現在、日本でも「二季」になりつつある。
5月になろうとしているのに
長野では大雪が降り、今現在、ストーブを焚くほど寒い。
なのに田植えの準備に取り掛かっているので
夏はそぐそこだ。
この二季感覚。
数年前から経験しているこれが、月日の速度を
速く感じさせる因のひとつなのではないか。
今までなら、ほどよい中庸のが、
次の季節への橋渡しをしてくれた。
心身ともに「ひと息」つくために。
今では極端な冬と夏による襲撃で
緊張状態が年がら年中続いている。
これでは生活自体が慌ただしく、
メンタル面にもよろしくない。
こんな季節で過ごしている現代こそ
人と人との間で「ひと息」必要となる。
それを教えてくれる本がいよいよ日本に上陸。
インド・バンガロールのカウンセリングセンター
で30年間営まれるハンク氏のメソット公開である。

親業

親は自身の子どもに対していつも
「愛」を伝えている必要がある。
それは言葉でも態度でも。
それを『親業』(しつけ)という。
親業とはファーザーハンクが
子どもたちに行っていること。
Whatever you are, whoever you are,
I accept you as it is.

「あなたがどうあろうと、あなたが誰であろうとも、
私はありのままのあなたを受け入れる」

と、繰り返し絶えず子どもたちに話すこと。
こう、力強く語るドクターアリの言葉を受け、
2人の子を持つガイドに聞く。
   親業 やっている?
「イエス! もちろん。
あるときこんなことがあった。
翌日重要な仕事を控えていた晩、
当時8歳だった娘が、一緒にバザールに
行ってくれとせがんできた。
友だちの誕生日プレゼントを買いたいからと。
パパは明日の仕事の準備で忙しいから、ママと行ってくれ
と頼んだ。すると彼女はこう言った。
『パパ、明日はわたしの【友だち】になっていいから
今日はわたしだけの【パパ】でいてくれない?』

いや、まいった。
わずか8歳の子どもだよ。
仕事なんて二の次で
すぐ一緒に出かけたさ」
子どもは観ている。
重要な場面で親が自分とどう関わってくれるか
自身が大切にされていると感じて育った子の
自己価値観は揺るぎなく、自分軸を持てるようになる。
だからガイドの娘には「芯」がある。
自己の任務を明確に遂行するべく
医療の道を選んだのだろう。
どんなに親の反対があろうとも
わが道を行く子に育ったと。
親であるガイドにとっては複雑な気持ちだろうが
それでよかったと思えるときが必ずくる。
子は子の道を歩み、
親はただそれを見守ることしか出来ないのだから。

バランスされるということ その15

静かにノコム孤児院を見守るワララール聖者
画像

生前この聖者は、自宅からフリーミールを
施す場所まで徒歩で行く道中、手には鉄を持ち
数時間のウォーキングで、鉄を金(ゴールド)
に換えていたというアルケミスト(錬金術師)
だった。
その「金塊」で食料を購入し
その日の「施し」を終えると。
決してその金塊を自身のために
使うことはなかった。
天意に沿えば、
必要なモノは揃う
ことになっている。
まさに天から降ってくるがごとく。
画像

早朝、ノコムでフリーミールがあるからと参加。
この日はチェンナイから来た家族が提供者。
聞くと、高校生になる娘さんの誕生日だと。
こうやって現在でも記念日にフリーミールを
施す習慣がしっかり残っている。
神から命を与えられたその日に感謝を込めて
他に施すという行為は、人として
あるべき姿だとインド人は言う。
GHが提供するバースデー@フリーミール
4年目を迎え、嬉しいことに習慣として
毎年施す方が増えてきている。
画像

朝食終了後、手作りバックを配る。
まだ学校に行く年齢ではない子が
気に入ってバックを離さない。
画像

ここに通い始めた当初は理事長である
シャクティヴェルが、日々の生活費に窮し
資金集めに奔走していた。
そこにわたしが降ってきた。
それからというもの定期的資金援助の道筋ができ
今では、事務スタッフも雇え、
画像

施設は地域の女性たちの職業訓練にと洋裁と
タイピングのトレーニング場として機能している。
画像

これぞまさにシャクティヴェルによる
錬金術ではないか。
アルケミーはピュアな精神で成り立つ。
そこにエゴという「我欲」はない。
シャクティヴェルに真摯な心がある限り
天からの捧げモノが降り続くことであろう。
それが傾いたら、ただバランスされるということ
つまりコトが流れなくなる。
それに気づいたら元に戻ればいいだけ。
さて、ギビング・ハンズもそろそろ
次なる支援先を探すときを迎えている。
これもきっと
天からの思し召しがやってくることだろう。
                  Fin

バランスされるということ その14

ある生徒が先生に問う。
   God is nowhere !
「神なんかどこにもいないじゃない!」
「ん、そうか~」
と先生。
黒板に書いた生徒の文に一筆加える。
   God is now/here !
「神はまさに今ここに!」
インド人は三度のメシよりプージャが好き。
※祈願の儀式・祭祀のこと。日本でいう加持祈祷。
朝起きてプージャ。食事前にプージャ。
午後のプージャに寝る前のプージャ。
とにかく頭の中は神への儀式のことでいっぱい。
主婦がつねに次の食事メニューに
頭をめぐらせているように。
寝ても覚めても神様、神様。
そんな神々を讃えるプージャの種類はいっぱい。
今回ガイア・セレモニーに選ばれたのが
ガネーシャ・プージャだ。
画像

画像

コリ・マライ寺院の僧侶がひと通りの
儀式を執り行い、食事のあとは
いよいよグルジのプージャである。
画像

滝行で清められたあと、
これでもかというほど煙にまかれる。
最低限の着替えしかないわが身は
その夜、キナ臭いなか眠りにつくことに。
洗面用具なし。
山の宿に備えなど到底ないし
部屋があるだけまだまし。
2年前、急遽連れていかれたナンビーヒルでは
境内で野宿という雑魚寝だった。
早朝、現地出発すればなんとか翌日
陽が高くならぬうちにブラフマリシヒルに戻れる。
画像

だが、道中にある寺院に参拝してはそこでまたプージャ。
単なるアルチャナ(灯明を捧げる)ならすぐ終わるが
ひたすらホーマ(護摩)を焚く。
そんな彼らをみて
クロアチア人の辛口批判がはじまる。
「インド人はプージャのために生き
生きていくためのプージャではない。
そんな手段が目的になった生き方
ボクはしたくない。
だからインド人のグルは持たないことにしている
あくまでも《知識》を学ぶためだけさ」
   へぇ、そう?
   あんなに『グルジの言うことを聞けないのか』
   って、散々わたしを罵っておきながら
「あれはボクの魂が聖地に行きたがっていたから
  ああいう表現をしたのさ。
    魂=真我、それがボクのグルなのさ」
妄信信者と思いきや、
実は『自分がグル』というタイプ。
あまりにも強烈な個性の持ち主ゆえ
師と仰げるグル探しは大変だろうと。
これだけインド通だからこそ、インド人の修行における
マイナス面も十分把握しており、それらを
踏まえたうえで分析しながらインド流もどきを
うまく取り込んでいる。
丸ごとインドを他国の人間が取り入れることに
違和感あるわたしと、ここでも同意見だった。
翌日21日朝、カーリー寺院でプージャ。
戻ってブラフマリシヒルにてプージャ。
画像

この2日間で4つものホーマを施し
すべてに付き合ったクロアチア人が呆れてた。
そんなにやってどうするねん?
こちらの当初の予定は1回だけ。
これはわたしの希望ではなく、クロアチア人含む
地球人としてカルマの流れがそうさせているのだ。
ともあれ任務は終了した。
画像

あとは、4月、5月の月食日食@フリーミールの
手配をするだけである。
           つづく・・・

バランスされるということ その13

Oh my god! Sorry.
   こんなところだと知らずにボクのせいだ~」

ひいひい言いながらビデオ片手に
急な下り階段を降りていくクロアチア人。
72のヘアピンカーブを上り1300mの山に着く。
まず「禊ぎ」儀式のために深い深い谷底へと下る。
その距離片道4Km、階段数1005段
それにまして急角度。両手で手すりに
しがみつきながらの下降だ。
撮影しながら片手を塞がれたクロアチア人は
怖い怖いと大騒ぎし、終いにはここに
誘って悪かったと泣き言を言う始末。
来ちゃったんだからそんなコト言っても
しかたない。とにかく無心に進むしかない。
しかして行きはよいよい、帰りはそれこそ怖い。
果たしてこれだけの急な斜面を上がってこれるのか?
グルジの息子が、クロアチア人のリクエストに応え
ここがいかに聖地かをビデオカメラに向かって語る。
過去世の悪行をキレイに拭い去ってくれる聖地。
しかも3世代遡ったカルマを。

その源は女神パワーなのだと。
それには滝に打たれ、そのシャクティにあやかること。
小1時間ほど下ると、視界に水の柱が広がる。
100mもの高みからまるで下り龍のような。
画像

  Akasatirtam water falls
  アーカサティルタムの滝

  Akasa=space=sky 宇宙、空
  Tirutam=sacret 聖なる

  
 宇宙からの神秘の滝
実際、何人もの探検家がこの滝の源水を
探り当てようとしたが、未だどこから水が
やってくるのか誰も突き止められていない。
ここに着いただけでもう満足。
一気にすべてが解放されていく。
この滝に行くゲートが閉まっているのを
無理やり脇から入り込んでやってきた。
滝を浴び終わる頃には辺りは薄暗くなり
野生動物が登場しそうなジャングルと化す。
我われ一向が行き来する道中、ずっと2匹の
バイラバ(犬)が護衛してくれた。
懸念していた上りは、蚊の攻撃から
逃れようと急いでいたこともあり
下りより楽々行けたような気がする。
きっと、ナチヤコイルのガルーダ神が
聖なる空間で軽くなるが如く、
聖水によって過去世の重いカルマが
吹き飛び、身体が軽くなっていたに違いない。
ガイア・セレモニーとは、地球人のための儀式。
この重要な任務に己のカルマで足を引っ張らぬよう
まずはここに連れて来られたのだろう。
これで準備が整った。
あとはセレモニーに臨むだけ。
          つづく・・・

バランスされるということ その12

出発してから1時間後、ランチのため途中、
りっぱなホテル内のレストランに寄った。
陽が昇る前から動いているので、
昼前だが、とても一日が長い。
さて、腹ごしらえもしたことだし、
ちょうど昼寝にはいい時間。
寝る気満々で車に乗り込む。
すると、どこからともなくおじさんたちが
わんさか現れ、グルジの車に群がっている。
   だれ?
「あぁ グルジの信奉者たちだ。
ここを通りがかると聞きつけて集まってきたのさ」
わずか1時間前に決めたことなのに
誰かが伝えたであろうが、よくこれだけの人が。
日本では春分は祭日だがインドは違う。
仕事してないのか。
よく見ると、それなりの出で立ち。
きっと仕事などどうとでもなる立場であろうと。
すると、何人かがグルジの車に乗り込んでいる。
あいさつだけでなく、一緒に行くというのか。
必然的に乗っていたクロアチア人が放り出される。
結果、余裕あるわたしの車に乗り移る。
   あぁ、昼寝タイムが・・・
ナンの因果か、さっきわたしを攻め落とした
ヤツがとなりに座った。
その後、彼はひたすら「機関銃」のように
しゃべり続けた。
そう、往復8時間ずっ~と。
互いの共通話題がここまであるかというくらい
なに話しても尽きず、次々と話が展開していく。
彼は、インド哲学はじめサンスクリット語に長け、
ジョーティッシュはプロ。自国では多くの人たちに
教えてセッションしている。
ここまでならいわゆる「インド信奉者」。
で、さらに作詞作曲するミュージシャンであり
自国に多くのオーケストラを招いたりしている
実業家でもある。
話題としては、闇の組織、マヤ文明、宇宙連合、
仏教はじめとする世界の信仰(特に密教系)、
政治経済などジャンルを問わない。
読んでいる本、知っている人物の照らし合わせ
にはじまり、最終的にはジョーティッシュに絞り込まれた。
お互いのホロスコープを描写すると、
即座に年齢が判明することを承知の上で。
旅に出るとさまざまな文化と人たちに出会う。
そこで共通する話題を見つけ、交流がはじまる。
たいてい自国の文化情報を交換することで終始する。
インドに来るとマヤ文明は語れないし
中南米に行くとインド哲学は通じない。
ましてインド人以外と
ジョーティッシュを論じ合うなど皆無であるのに。
外人など誰もたどり着きそうもないマイナーな
聖地で、まずクロアチアってどこにある? 
から説明しなくてはならぬほど新国の住人とだ。
ドン・アレハンドロはよく日本にいらっしゃると話すと
「クロアチアにはなぜ来てくれない」と悔しがる。
わたしもクロアチア人も、ある聖者から
ブラフマリシヒルを紹介してもらった。
こうやって人の縁は結ばれていくもの。
画像

夕方、目的のコリ・マライに到着。
ガイアセレモニーの前に皆でやっておくことがある。
そう。「禊ぎ」の本格ヴァージョン。
「滝行」へと、いざ出発。
           つづく・・・

バランスされるということ その11

「なぜ君はグルジの言うことを素直に聞けないのだ?」
はじまったぞ、妄信者のたわ言が。
仕事がなんだ。
聖者のヒラメキには深い意味がある。
これがどれほどの価値か分かっているのか。
ああでもない、こうでもない。ブラブラブラ。
と、コリ・マライに行かないと決めたわたしを
罪人かのように攻め立てるクロアチア人。
グルジもガイドも無言を呈している。
それにしてもよくしゃべる男だ。
たった数語、朝、言葉を交わしただけの
他人に向かって臆せもせず、
まるで教師のような口ぶりだ。
たった1年前にグルジを知り、わずか1ヵ月の
滞在でここまで盲信(妄信)できるものかと
かえって感心してみた。
面白いので ふむふむ黙って聞くことに。
すると、勢い余った彼はだんだん話が反れ、
サンスクリット語でマントラを唱え始めた。
   なんでインド人でもないあなたが
   完璧な発音で唱えられるのか?!

あまりの上手さに
ド肝を抜かれたわたしとガイドが同時に訊ねた。
驚いているのを面白がり調子に乗って
さらに歌い始めた。
変なヤツ。
その後、彼の演説をしばし聴くことに。
画像

この男の説得はまったくもって心 動かないが
「外応」で判断するわたしの決まりに従うことにした。
これは「行け」というサインだ。
あとは翌日予定してる仕事が変更可能か確かめよう。
ガイドに指示。
可能だと。
あっさり諦めたかのようなグルジだが
悔しいことに、結局いつもグルジの思い通りになる。
まあいいけど。
とにかく20日の春分にセレモニーを
行うことが最優先。
クロアチア人の舞台を優雅に見ている時間はなし。
そうと決まったら早々に準備開始だ。
まずは、山と抱えてきたハーブ原料を
あっちとこっち用に半分に分ける。
画像

着の身着のまま、なにも持たずに来たので
タオルと着替えをマタジに借りる。
片道4時間。
この炎天下に車中移動だ。
3ヵ月前にコリ・マライ寺院には行っている。
しかしてグルジはもっと山深い、聖なる空間に
連れて行ってくれるらしい。
この流れは、地球人である
ここにいる皆のカルマだ。
どうなることかは考えず、
天に委ねることにする。
あとで、クロアチア人が謝ってくることに
なろうとは知らずに・・・
          つづく・・・

バランスされるということ その10 

生命体である地球(ガイア)には、
年に4回スイッチ切り替えの時期がある。
春分、夏至、秋分、冬至という至点。
太陽と地球のエネルギーバランスが
拮抗するポイント。
そのとき地球は息継ぎをし
あらたにまた活動を開始する。
特に春分・秋分はエネルギーが等分になるとき。
中庸なるゆえ、どちらにも傾く。
ここで聖なるスイッチを入れることが
ガイア住人の義務であろうかと。
2年まえから4,8,12月と渡印する
リズムを保っていたが、昨年後半に
占星術国際クラスに出席してから
早めのリズムに変わった。
で、今回ちょうど渡印が春分に重なった。
聖なるスイッチに少しでも貢献できればと
どこかの聖地でガイア・セレモニー
してもらおうと決めていた。
候補地はたくさんある。
あとは日程的にどこが適地かと。
17日のハンク氏出版ファンクションに
バンガロール行くことにしたので、
その途中にある、南では聖地中の聖地
ティルマンナマライがいいかとも思ったが、
スケジュール的にムリ。
となると、マイナーだが、わたしには
深い縁のあるグルジが見守る
ブラフマリシヒルしかない。
さっそくガイドを通じて
その日のグルジの予定を確認してもらった。
返事はYES
よし。決まりだ。
事前予約しておいたので
準備万端。
山の頂で施す供物であるハーブを山ほど抱えて、
水や薪やらを頂上に運ぶ要員2人も連れていくため
ひとまわり大きい車を手配した。
画像

1年ぶり。
ときは初夏寸前。
昼は暑くなるので早朝決行することに。
朝8時に現地に集う。
  Good morning
グルジとマタジ(奥さん)が出迎える。
すると欧米人男性2人が上半身裸体でやってきた。
ここで外国人に会うのは初めて。
シンガポールやスリランカ在住の信奉者は見れど、
皆、タミル・ナドゥ州にルーツするインド人である。
聞くと彼らはクロアチア人。
すでに1ヵ月ここに滞在していると。
ちょうど朝の参拝にとヒル(山)に登るところだった。
   あとでわたしたちもプージャのために登るから
とだけあいさつし、彼らはその場を去っていった。
早朝儀式に参った我われをよそに
グルジがひと言。
「モンキーがやってくる夕方がベストタイムだ。
       プージャはそのときしよう」

   へ?
予定がここで狂った。
   じゃあ、あと8時間、ここでなにするねん?
こっちは
夜中3時起きで、4時間かけてきたのだ。
まったくいつものこととはいえ、気まぐれグルジの
コロコロ発想が暴走しはじめた。
「おぉ! そうか。
それだけ時間あるならコリ・マライに行こう。
そこでプージャして帰ってきたらちょうど夕方だ」
話を最後まで終えぬうちに、
携帯で誰かに電話している。
慌てたガイドがグルジと言い合っているが
コトの次第が分からぬわたしは事態をジッと見つめた。
   どういうことか分かりやすく説明して
当初の予定だったブラフマリシヒルでのプージャを
変更して、コリ・マライでやるという提案。
日帰りが可能かと思いきや、せっかく聖なる空間に
行くのだから一泊したほうがいいと。
朝のプージャが夕方に変更になっただけでも
ため息ものなのに、一泊する大掛かりな旅に変更ってか?
ちょっと考えたが、やはりムリだと伝えた。
すると意外にもグルジはあっさり
「わかった」と引き下がった。
珍しい。
しかし彼はすでに、山のてっぺんに登った
クロアチア人を下山するよう呼び寄せていた。
コリ・マライに行く気満々で大急ぎで下りてくる彼ら。
声をかけた手前、グルジは彼らだけ引き連れて行くつもりだと判明。
    は? それってどういうこと!!
ずいぶん前に予約しておいたこちらの約束を反故にして、
思いつきで立てた計画を優先するなんて
いくらグルジとはいえ、許せない。
ガイドに散々文句を言った。
板ばさみで困ったガイドは最後の頼みの綱
女神マタジ(奥さん)に言いつけ、グルジを説得した。
いつの時代も女は強し。
これでひと安心。
すると、そんなこと何も知らない
クロアチア人が汗だくで下山してきた。
コトの成り行きを聞いた彼らがすごい勢いで
わたしに向かって突進してきた。
あぁ・・・ めんどくさいことになったぞ。
しばしクロアチア人の苦言を聞くことに。
             つづく・・・

バランスされるということ その9

   あれ、ドライバーは?
「急用が出来たので先に行った」
   また車の故障?
「まあ、そんなもんだ」
ナチヤコイルへの参拝を終え、
次なる目的地へと外に出ると車がなかった。
別の車を手配したガイドと向かった先は
すぐそばの、先ほど行ったティルナライユール。
そこにはドライバーが
車の横に澄まし顔で立っていた。
車屋さんでなく
なぜ、寺院にいる?
不思議がっているわたしを見て
ガイドがコトの次第を解説。
画像

寺院内で、やおら仮眠した
ガイドとドライバー。
ガイドはわたしの仕事に付き合い、
ドライバーは外に駐車してある愛車を見に。
睡眠に邪魔と、携帯のスイッチを切っていた
ガイドにつながらないと、外に出ていた
ドライバーがわたしの携帯に電話をしてきた。
なんだか焦っている様子。
ガイドに電話をかわった。
現地語で話しているので内容は不明だった。
起こったことはこれ。
そのとき、外に出たドライバーは
少しでも車を日陰に停車しようと移動させた。
その瞬間。
もの凄いうめき声が・・・
それは車の
タイヤの陰に涼んでいたヤギの鳴き声。
そう。
知らずに車を動かしたドライバーは
ヤギをひいてしまっていた
これを観た近くの住人に囲まれドライバーは
窮地に立たされ、非難轟々の嵐に遭う。
ドライバーが助けを求めたガイドがひと言。
「土星神に懺悔してきなさい」
ということで、近くにある生死を司る土星神
ティルナライユールにて祈りを捧げていたというわけ。
インドのヤギというと、キリスト教でいうだ。
つまり屠(ほふ)られる対象。
未だにカーリー女神信仰の寺院ではヤギを供養する。
数年前コルカタの寺院で実際その瞬間を目にした。
インドの儀式では、ライム(レモン)がよく施される。
ライムはヤギ(羊)に見立てられる。
つまり、時代が変わりやり方こそ変わったが
ヤギ(goat)が生贄にされる習慣は変わらない。
scapegoat スケープゴート 身代わり
キリスト教では「ヤギ」は悪魔的要素で
表現されているが、実はその逆が真かも。
ドライバーは運転にかけては天下一品だが
コト寺院参拝となると、いつも「疲れる」とか
言い訳して、我われには付き合わない。
その天罰が生じたのだ。
長時間、聖なる空間で清められた彼に
供物としてヤギが屠られ、車ごと
土星神にあいさつに行く流れとなった。
フリーミール料理長の逮捕劇に始まり
ガルーダ神の祝福話を受け、締めくくりは
ドライバーまで浄化されるという展開。
こうやって、波動は元に戻され
人は生かされていくものである

善きコトをする=好ましい結果がくるとは限らない。
ただ、最終的には「望ましい」結果となるのだ。

それは
嵐が去ったあとの清々しい状態と同じだ。
さて、これでもかという禊ぎを終え
この流れで、春分の儀式へと向かおうかと。
果たして何が待っていることやら。
     
         つづく・・・

バランスされるということ その8

聖なる空間に行くと空気が「軽く」なる。
それは逆もしかりだ。
この「軽く」なる、という感覚。
いったいどんなメカニズムなのか。
単なる思い込みか、実際の重みを感じてなのか。
それを証明する事実が、ここナチヤコイルにある。
どこの寺院でもそうだが、そこの主催神である
ご神体が奥の間に鎮座している。
たいていが石で出来た像。
そしてムーバブル・ディーアティ(movable deity)
として村々を練り歩く儀式に連れ出すご神体がある。
画像

普通、これは小さく
持ち運びやすい金属でできている。
画像

しかし、ここナチヤコイルのそれは
人間大ほど大きい。しかも素材はである。
ヴィシュヌ神を祀るここでの可動神は
ヴァーハナ(神の乗り物)であるガルーダである。
こ、これをいったいどうやって寺院から出し、
お神輿のように運ぶというのか。
そこにインドの神のカラクリを見た。
まず、ヴィシュヌ神が鎮座する脇部屋に
独立してガルーダ神がいる。
その部屋から通路にご神体を出すため
に必要な要員は、なんとたった4人
その後、寺院の外に出るまでに
通路には3段階の階層がある。
神の間から出されたガルーダ神が
次の階層に降ろされるための要員は
8人、その次の階層へは16人
そして地面と同レベルの階層に降ろすには
さらに倍である32人となる。
これに止まらず、境内からいよいよ
俗空間である外に連れ出すために
必要な最終的人数は64人になる。
にわかには信じがたい話に
目を丸くさせながらも
僧侶にしつこく聞いてみる。
   で、実際の重量は?
「知らない」
えぇ、ホントかな。
こんな話聞いたら誰だって
量ってみたくなるというのが心情じゃない。
もう一度別の僧侶に問う。
「知らないし、そういうものは量るものじゃない」
おっと、そういうこと。
神さまに対して実験するという疑う行為ほど
バチあたりなものはないと。
へいへい。
でも写真だけは撮らせてよ。
と、他の参拝客がいなくなってから
秘かに撮らせてもらった。
画像

まず、どう見積もってもこの石の巨体を
大人4人で持ち上げられまい。
たとえ表に出たとき64人で担ぐ行為が
「やらせ」であっても、4人でOKはないな。
ということは、最奥の間に鎮座している
主催神の間は、いったいどんな空間だろう。
どこの寺院でも
そこは僧侶以外、足を踏み入れてはならない場。
ありがたいことに、日本人参拝者が
儀式に参加するとき、奥の間直前の
通路最前列に座らせてもらえる。
そのときわたしの身体が軽くなったかと
聞かれると、まったくそんなこと感じたことはないが
事実、何トンもあろう石のご神体が軽くなっている。
寺院とはそんな空間なのだと、あらためて認識した。
その寺院内にドライバー含め我われは
4時間以上いたのだ。
そうとう軽くなったと見込まれる。
その果報なのか、
外に出たドライバーが、真っ先に「禊が」れていた。
           つづく・・・