よちよち歩きの日本人

ブレーキが後輪についていない自転車が問題に!
お笑い芸人が後輪ブレーキなしの自転車に乗っていて
警察に注意されたとニュースになっていた。
これを見ていた姉が、
「ブレーキなしでどうやって止まるのさ!!」
と、TVの前で叫んでいた。
見た瞬間、これってヨーロッパでは当たり前の自転車でしょ。
そう思って観察していると、やはりペダルを逆回転させると
後輪も逆回りする
と説明していた。
このカラクリで、乗っている人は上手くスピード調整
しているのだ。なのに報道では、その逆回転が
ブレーキ操作の働きをし、このタイプのものは
ヨーロッパでは標準、なんてことは一切口にしない。
ひたすら「危険」であることをあらゆる角度で取材し
終いには芸人がまるで常識外れかのように扱われ
謝罪した文言まで報道されていた。
この自転車、まさにわたしが北欧カリン宅で借りて
農場視察に使ったものと同様のもの。⇒ 
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このニュースを ヨーローッパ・北欧人が見たら
「大変です。今、日本では自転車に補助輪なしで
      道路を滑走する若者が増えています!」

と、大騒ぎしている滑稽な報道に見えるに違いない。
ちょっと訓練すれば、従来の摩擦によるブレーキで
スピードを緩めるより、車輪の回転を調整する方法
のほうがいかにもスマートだし、タイヤの磨耗も少ない。
それを知らない視聴者はこれを見て、姉のように
「ブレーキなしで乗るなんて、非常識!」と叫ぶに違いない。
教訓1: 報道は鵜呑みにしないこと
教訓2: 日本の基準は世界の基準とは異なるということ

あの自転車に北欧で乗って以来、気に入ったわたしは
いつしか日本でも手に入れたいと思っていた!
まさか日本では違法だなんて、芸人じゃないが思いも寄らぬこと。
危険なこと、危険分子を排除することに長けた日本では
今後も【補助輪付き自転車】が主役を占めることに違いない。
危険を避けてばかりでは、いつまでたっても
成長できないだろうに・・・

自分軸という親

YOSHI がカウンセリング・センターでスプレーアート
パフォーマンスをした直後、押し寄せるようなキッズ
の質問攻めに遭った。
「これはなんという手法だ?」
「この丸は月、か?」
「どうやったらこんなことが出来るのか?」
「僕がやるにはどうしたらいいのか?」
初インドのYOSHI には聞き慣れない英語攻撃。
通訳するわたしもキッズの矢継ぎ早の質問に圧倒された。
やってみたいキッズを集め、YOSHI が指導することに。
レッスン終了後、皆、満足げに作った作品を眺める。
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イベント終了。
と思いきや、ひとりの男の子がYOSHI に近づき
なにやら直談判している。
「僕は、みんなと一緒じゃなく、ひとりでやってみたい・・・」
   いるんだな、こういう子。 インドには特に
YOSHI が快諾してくれたので、一対一のレッスンに。
   名前は?
「アーカーシュ」
   ふむふむ、『空(くう)』だね、で、いくつ?
「19歳」
   日本でいう18歳
   じゃあ、YOSHI の言うとおりにして
「えっと・・・ 僕は描きたい絵がある。
ここには山があり、空には鳥が飛んでいて、山の麓には雪だるま」
YOSHI 「え? 山に雪だるまって? いきなり上級コースだよ!
      それを教えるのか・・・ わかった、僕がまず描くから
      そのとおりに真似してと伝えて」
    アーカーシュ、YOSHI が描いたら、その通り真似るんだよ
    よく見ておくように!!
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YOSHI があっという間に描き終えたあと、アーカーシュの番。
・・・まったく、違う描き方。
彼は独自の手法で描いていた。
指導者 YOSHI にしたら、逸脱もいいところ。
その時点でYOSHI はその場から去り、別のキッズと遊ぶ。
    先生! ダメだよ放棄しちゃ、戻って
    インド人とはこういう特性
    ましてや彼は、カウンセリングを受けるキッズ
しぶしぶ戻ったYOSHI にアーカーシュは自身の作品を
どうどうと掲げて先生に尋ねた。
キッズ:「先生、初めての僕の作品の出来はどう?」
YOSHI:「正しいやり方を無視して描いた絵に評価は出来ないな」
キッズ:「それでも評価してほしい! どうかな?」
YOSHI:渋々と 「・・・ まあ、いいんじゃない・・・」
キッズ:「ヤッター! 初めてにしては上出来ってことね!」
さすが楽天的 B型インド人。
なんでも肯定的である。
彼は他と一緒を拒んだ。
ひとりでやりたい。
で、その評価を一身に受けたい
つまり、先生から認められたいと。
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ところで、
人に認められることって、そんなに価値あることなのか?
彼のような10代の頃は、まず親に認めさせたくなるもの。
自分がもう子どもじゃないってことを。
それがもし、親がいなかったり、関心を向けられなかったりすると
周囲に、世間に認めてもらおうとする
だが、世間や周囲は現実の親とは違う。
注がれる目は、決して無条件の愛がベースではない。
しかし彼ら子どもは、無意識に他の大人たちに
自分の親代わりになってくれることを願う。
それを世間では『甘え』という。
この、「認められたい欲求」が、自分を誉めてもらいたい
認めてもらいたい、あるいは指導してほしい。
そんな気持ちで年上の大人と付き合うようになる。
結局これは、周囲に依存していることになる。
その人を勝手に、自分の仮想の親とみなして。
親のように接してくれるときもあるし、
本気で親のように思えるときもある。
でもその人は、本当の親ではない。
だから、その人に自分を認めさせても、
つまるところ自分で満足できないし、成長にもつながらない
   ではなぜ人は、親に認められたいと思うのだろうか?
親とは、自身のルーツをたどる存在。
端的にいうと、自分の中心軸とつながる場。
そこを安定させておかないと、地に足が着かない。
だから親や祖父母に無条件に受け入れられて
育った子は、万能感に満ちている。
そこには『軸』があるから、揺るぎない自信となる。
では、そうでなかった人たちは、いつも他からの
承認を渇望し、アーカーシュのように評価を気にして
生きていかなければならないのだろうか・・・
   答えは否
誰かを、「軸」を作る親代わりにしようとせず、
自分が親の役割を兼ねるということ。
なぜなら親の本質は自身の『真我』だから。
自分の成長を認めるか否かも、自分に聞く。
道を踏み外しそうになったときも自分を叱咤し、
戒めるのも自分自身だ。
なにかを成し遂げ、成功した自分を誉めるのも自分。
心にしっかりその軸があれば、他人の意見に翻弄されることはない
それはとても孤独かもしれないが、それと向き合うことも、
成長の一歩だ。独りでいることは弱さではなく、強さなのだと。
このような役割のために親という存在があるとしたら
自身の親である『真我』に常に耳を傾け生きていくなら、
沈黙する孤独こそ、最高の両親に他ならない
そこには、周囲の雑音に惑わされない
揺るぎない自分がいる。
4月には居なかったニューフェイス、アーカーシュ。
彼のメンタル・リハビリは、いつ終了するのだろうか・・・

どこもかしこも災害

自然災害によく見舞われるネパール。
その原因のほとんどが、豪雨や土砂崩れ。
そんな地域のヒマラヤ付近で『地震』があった。
即、ネパールにあるチベッタン学校と、
ダージリンに住まうチベッタン・ラマに連絡。
ラマ曰く、生涯で地震は初めての経験だと。
以下、ネパール学校からの返事;
ナマステ!
すべて順調でしょうか。
先日ネパールでM6.8の地震がありました。
多くの人びとが家屋のダメージにより負傷し、
この災害で6人の死亡が確認されました。
幸い、私どものポカラ校での被害はありませんでした。
こちらでは今、長期休みが間近です。
GCBSの生徒はあと15日以内に1ヵ月の休みが始まります。
それ以外はいつもと変わりません。
あなたの都市で台風が近づいていると聞き、とても心配しています。
自然災害にはくれぐれも注意し、どうかご自愛ください

当GCBS一同、あなたとあなたのご友人たちのために
お祈り申し上げます。
敬具

Namaste!
Hope everything is fine with you;.
Recently in Nepal, there was also an earthquake of 6.8 scales.
Many people were injured due to the damages of their houses
and 6 people were died by this disaster.
Luckily, nothing happened in our school Pokhara.
The time for long vacation is very near.
Within 15 days we will have one month holiday for GCBS students.
All the other things are as usual.
I am very sad to listen the news that a hurricane is approaching
your capital city. Take care about your self from these natural disasters.
All of our GCBS family prays for you and your friends.
With best wishes and many greetings from GCBS family.
Sincerely yours,

ちょうどこのメールを受け取ったのが、首都圏を
暴風域が駆け巡り、帰宅難民の報道を見ているとき。
こちらが心配の連絡をすれば、あちらでもこちらの心配をする時代。
もう、だれもが他国の、いや、他人の心配などできぬ
世の中となる兆候に思えてならない。
全世界、総自然災害警戒域に入ったのは確かなようだ。
これも神のシナリオ。
地球が洗濯されている。
日本への集中攻撃は、役割があるから。
心して生きることにしようか。

開かれた窓

YOSHI がカウンセリング・センターのキッズたちに
伝えたいことがある、と、パフォーマンス後に集まってもらった。
彼が別の場所で準備している間、ハンク氏がキッズたちに
「なにか聞きたいことあるか?」と問うた。
すると見慣れない新人君 A が挙手。
キッズA: 「イエス・キリストの救済活動について教えてください」
ハンク氏:「 ・・・お前ね、なぜ今、そんな(関係のない)質問するのか?」
キッズA: 「なぜって、僕はいつも困った人のことを助けたい、
                            そう思っているから」

ハンク氏:「ほう、本当にそうか?」
キッズA:声を荒げ 「いつだって、路上にいる貧しい人のことを憂えてる!」
ハンク氏:声を大にし 「常に他のことを思っている、というヤツが、
             なぜ目の前の仲間のことを思いやれない! 
         
       YOSHI のパフォーマンスが終わり、それに関心ある場で、
       『聞きたいことないか?』と問うた意図をどうして
       お前は推し量れないのか? 他のものがお前の
       発言をどう感じているか、わからんのか・・・」

いつも耳にするやりとり。
キッズのKY思考を修正するハンク氏。
ここでのリ・ペアレンティング(再親業)手法。
そこへ準備できたYOSHI が部屋に入ってきた。
伝えたいことを皆の前でスピーチしたあと、座った。

通訳したわたしの耳元で囁く。
「キッズに『夢はなにか?』って聞いて」と。
    いやいや YOSHI
『自己確立』以前のここのキッズたちに、
「夢?」なんて、時期尚早の問いである。
初めてのカウンセリング・センターで対応する
YOSHI に説明しようとしたら、案の定、
さっきのキッズAとハンク氏のやりとりが再開していた。
ほどなくして我われも、日本に向けてバンガロールを
去る時間となった。
YOSHI とほぼ同年代の若者の現実を見て、
彼はしばし考え込んでいた。
「僕、普通であることに感謝したいです・・・」
そう漏らした。
知らなかった世界を知るということ。
そこには別の窓が開かれる。
自分の等身大を確認するために。

スプレーアート@南インド 

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北インドのガイドに画像を送った。
「インドで、このようなスプレーインクは見たことありません。
 唯一あるとしたら、3月に催される【ホーリー】で使う
       色粉を水に混ぜたカラーインクのみです」
   ホーリー・・・ 
   あ~ 絶望的
  ※ホーリー祭(Holi)とは、インドやネパールの
    ヒンドゥー教の春祭り。春の訪れを祝い、
    だれ彼なく、色粉を塗りあったり色水を掛け合ったりして祝う。

8月の渡印時に、南インドの支援先ノコム孤児院と
ASVカウンセリングセンターで、日本でのスプレーアート
第一人者のアーティスト YOSHI のボランティア
パフォーマンスを企画した。
彼にとって初の海外イベント。
どのような手順を踏めばいいか手探り状態。
問題は、スプレー缶が国外へ空輸できないこと
海外パフォーマンスを経験しているYOSHI の
アメリカ人師匠にスプレー缶の調達法を聞いたら
「現地で揃えよ」、と。
まあ、先進国であればどこのホームセンターでも
あるアリキタリのシロモノ。
しかし、現場はインド。
しかも、未だ茅葺き屋根で暮らしている南の地域で。
最初から南で入手できるとは考えず、より都会である
北インドの日本語ガイドに「スプレー缶」手配を依頼した。
だが、返ってきた答えが【ホーリー】とは・・・
北ならあるだろうと期待しただけに、落胆。
まったくこの国の人というのは、宗教がらみの
発想しかないのか。
当然ながら、南のガイドはキッパリ述べた。
「そんなものは、わたしの周囲誰も見たこともなければ
  ここ タミル・ナドゥ州では存在すらしない」

想像どおりだった。
前途多難でスタートした企画。
振り出しに戻ったかと思いきや、YOSHI がインド行きが
決まったあと出会ったある日本人のツテを頼りに、
南インドでスプレー缶を取り扱うショップが見つかった。
その会社の連絡先をインド人に伝えた。
が、その先にはまた【難】が。
   スプレーペイント・アートに使用したいから
   油性でなく、水性スプレーを用意して欲しい
これが彼らの脳を、より混乱させてしまった。
スプレーペイントで【絵】を描くなど、想像を超えるもの。
だから、スプレーアートのパフォーマンス動画も送った。
それをガイドは著名な画家たちと、
スプレー缶会社のショップ関係者に見せた。
にもかかわらず、皆が口を揃えて「絶対にムリ」と。
人間というのは、たとえ写真や動画を見せても、実際
目の当たりにするまで自己概念を譲らないという生きモノ
別にそれでもいい。
彼らに理解させるのが目的じゃなく、
スプレー缶を入手するのが目的。
手配しているガイド自身も半信半疑。
わたしとショップとの板ばさみで、終いには彼ら
ショップの言い分だけをメール転送してきた。
そのやりとりは、わたしの北欧滞在中も続いた。
あまりにも混乱したガイドは、こちらの希望する
スプレーインクがないなら、空のスプレー缶に
水性ペンキを入れて【作る】
と言い出した。
   お、お願いだから、そんな無謀なことしないで・・・
いったいどこからそんな発想が沸くのか。
幸いなのが、わたしのインド入国10日後に
YOSHI が入国する予定だったこと。
最悪それまでにわたしがインドで調達すればいい。
まずは南インド・マドゥライに降り立ち、その場で
ガイドからスプレー缶の見本を入手することに。
それがOKなら、必要なカラーと本数を揃える
手はずでいく計画。
ダメだったら、カルマの流れに任せよう。
定刻どおりプロペラジェット機でマドゥライ到着。
「南」特有の空気。ガイドとの再会。チャイ。
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タクシーで移動する前に、スプレー缶のチェック。
ドキドキしながら地面にひと吹き。
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   ・・・まともだった。
   よし、YOSHI に伝えよう
こうして、懸念されたスプレー缶の調達任務が果たせた。
あとは彼のお手並み拝見。

         大成功 !
パフォーマンスを目の当たりにしたガイド。
いまだ信じられないという顔で、撮影した写真と
動画を自慢げに知人に見せまくっていた。
スプレー缶の存在を調べる前に、あれほど自信満々に
「ない」と言ってのけるインド人の性格は、今に始まったことじゃない。
そんな彼らの言い分は右から左に聞き流すことを
覚えたわたしの勝利だ。
アートを観て子どものように、嬉々とはしゃぐ
彼らを前に、そんなやりとりでの苦労も吹き飛んだ。
ギビング・ハンズ 初
日本人アート・パフォーマンス海外遠征の巻でした

『行為』の欲求

最近、わたしの食事係が【母】から【友人】に変わった。
自分の食べるものくらい 己でなんとかせよと言われそうだが、
「作るくらいだったら食べない」という選択肢は、
今も昔も変わらないようだ。
今日も食事を作りにきた友人と、
「なぜ人は『食の欲求』があるのだろうか・・・」
という話題になった。
「食べる喜びがあるからでしょう~」
と友人。
   いや、そもそも腹がすくから、この欠乏により
   満たしたいという欲求が生まれる
   この『欲望』が実に面倒くさい
本来、完成された世界には欠乏などないはずなのに
わたしの身体はバランスをとるために空腹感が生ずる。
この、『欲望』の取り扱い方は自身の『思考』パターンにより
自動的に起こり、その後の『行為』が決定される。
この行為の連続がサンサーラ(世界)をつくり上げる。
人が生きるための基本的欲求に悶々とし
慰めの意味から久々にバガヴァッド・ギーター
を繙(ひもと)いてみたくなった。
すると、食の欲求とは直接関係ない『行為』の欲求
についてのカルマ・ヨーガが目に留まった。
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汝の能力とは行為することだけであり、
   行為の結果を要求することにはない。
   したがって、行為の結果を動機として行動してはならない。
   同時に、無為(なにもしないこと)に捉われてもならない。

この詩節はカルマ・ヨーガの根本理念を説いている。
すなわち、せねばならぬ行為に完全にその身を捧げ、
しかもその結果には執着しないことこそがカルマ・ヨーガであると説く。
俗人とカルマ・ヨーガ行者との違いは、前者は失敗すれば
意気消沈し成功すれば得意に思うが、後者は失敗や成功に
まったく影響されないとうことである。
すべてに中庸であることは黄金律なのである。
すなわち、喜びすぎず悲しみすぎずに生きるということである。
一方 カルマ・ヨーガの目的は、過酷な状況下にあっても
心の平静さを保つことにある。
精神的混乱の原因とはなんであろうか?
それは正反対に対立する二極の感情なのである。
暑さと寒さ、成功と失敗、苦痛と喜び、健康と病気
好きと嫌い、愛と憎しみ等の感情がそこにはあるからである。
これらの感情は次々と私たちに襲いかかり、すでに病んでいる
心を更に混乱させるのである。もし私たちが心のバランスを保ち、
二極の対立感情に影響されなければ、私たちは幸福であり
調和の状態でいられるのである。
執着を捨て成功と不成功とを平等のものと見て、
ヨーガに立脚して諸々の行為をなせ。
ヨーガは平等の境地であるといわれているのだ。
ヨーガを基本とするということは、バランスのとれた心を持ち
二極の対立感情の影響を受けないということである。
これは感覚器官を働かせなくしたためになった結果ではなく、
むしろすべてのものが真我であることを悟り、それを自分の
身に実感しているからだ。
心が真我の中にある時は、三種の徳性(グナ)、すなわち、
善性、動性、暗性がバランスを保っており、その結果、
成功と失敗とを同一に考えることができ、心は動揺しないのである。
この心境こそが『ヨーガ』と呼ばれているのである。
クリシュナ神はこのヨーガを平等の境地と定義しているが、
これは心のバランスがとれていてすべての障害を克服する
という意味である。
この定義はパタンジャリ大師がヨーガ・スートラにおいて、
『ヨーガは心素の働きを止滅させることである』と述べて
いるのとよく一致している。

                  バガヴァット・ギーター
つまり、ここでのカルマ・ヨーガで言いたいことは
結果を期待しない行為(ニシュカーマ・カルマ)をせよ
ということ。
    難しいね~
でも、トライする価値のある行為。
そして「何もしない」というのとも違う。
それは、わたしのお気に入りの概念。
「したいからする」
その行為に相手の反応は影響しない。
こうなったら生きるのが『楽』。
基本的欲求のもうひとつ、『睡眠』についても
徒然に思う、きょうこの頃である。

「聞く」ということ

わたしのフェイヴァレット(好みの)アイスクリームは
ハーゲンダッツのラムレーズン。
冬季しか手に入らないから
寒い冬にアイスをたしなむ習慣になった。
インドでもときどきアイスクリームを食する。
こちらのカップは日本の1/3ほどなので、
わたしにはちょうどいい大きさ。
ただ、今までインドで、しっかり固まっている
アイスクリームに出合った試しがない。
冷凍庫から出した直後のものでも、
たいてい溶けかっていて、フタも浮いている感じ。
暑い国だし、インドの冷凍機能はこんなものかと思っていた。
ガイドが気を利かせてアイススリームを買ってきた。
フタを開ける。形状はほぼクリーム。
アイスの『ア』の字もない。いくらなんでもヒドイ。
   これ、完全に溶けてるが・・・
「あぁ~ ずっと停電だったからね」
と、涼しい顔のガイド。
   え? だったらすでに“アイス”クリームじゃないじゃん
   もしかして今までの溶けかけていたアイスも
   この停電のせい?
「そうだろう、きっと」
   知・ら・な・かっ・た・・・
   なんで言ってくれなかったの!
「は? 聞かれなかったし
まさか停電で機能が止まった冷凍庫でアイスクリームを
保管し、溶けたものを販売するなんて思いも寄らないこと。
   
が、インドでは当たり前。
いちいち客に説明などしない。
基準値の違いとはいえ、なんだか今までの
アイスクリームに騙された気分になった。
暑いインドで、冷えてはいるが甘ったるいだけの
クリームをすすった。
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その後、ティッタイという木星神の寺院に行った。
ここはたぶん数十回と訪れている場所。
寺院内に入る。木星神。参拝。
いつもだったらこれで終了だが、珍しく
シヴァリンガの鎮座する奥の院に連れられた。
シヴァリンガ真上の天井を指差しながら
ガイドがしきりに僧侶に何かを聞いている。
指差した天井には水漏れの跡がある。
ここでガイドがわたしたち日本人に説明。
ここにおわしますシヴァリンガは「スワヤンブSwayambu」と言って
自動的に地面から湧き出た石像である。
その昔 聖者ワシスタ(Vashishta)はこのシヴァリンガを
発見して礼拝した。だが、心から礼拝するに必要な
聖水がどこにもなかった。
そこで、聖なるガンジス川に祈った。
「ガンガーの聖水が雲のようにシヴァリンガに集まり、
どうかアビシェーカの聖水としてシヴァ神に注がれますように!」
その祈りは天に届き、乾季であろうと関係なく
毎日シヴァリンガにガンガーの水が注がれたのだという。
その後、そこには寺院が建立された。
シヴァリンガの鎮座する広間に天井が張られたが、
その天井を超えてさえも水滴が、毎24分おきに
一滴落ちてくる
ようになった。
そこでこのシヴァリンガは『ワシステーシュワラ』
と呼ばれる。

・・・このような話があったとさ。
という神話ならよくある寺院物語である。
しかし、ここティッタイでは、現在進行形で水滴が
滴り落ちている。その証拠が天井の濡れ跡。
   こんな話、今まで一回も説明してくれなかったよね?
ガイドを責める。
「僕だってつい最近本で知ったんだ。
だから今日、確かめるために僧侶に説明を求めた。
で、君同様、なんでいままで教えてくれなかったのか
と僧侶に問うたら『聞かれなかったから』だと」
そんな重要な建立物語は、普通だいたい寺院の
壁画に描かれていることが多い。
なのにここでは「聞かれたら話す」くらいのこと。
こんな話が山ほど転がっているインドでの
価値基準を思えばそうなのかもしれないが
違いあるモノと接するときは、「聞く」という
姿勢が重要
だと再認識した。

権力独占術のイロハ

「スワミ、この時期は奥さん実家に戻っているのかい?」
マンガイマダム。ヴィシュヌ神が祀られる寺院。
ここを管理している僧侶は今年の春、結婚したばかり。
つまり新婚ホヤホヤ。
その僧侶にガイドが放った言葉である。
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南インドの古い言い伝えで、一年のうちタミル暦の
アーディ月Aadi month (7月15日~8月15日)
妊娠した場合、チットライ月Chitrai month(4月15日
~5月15日)
に生まれる第一子、特に男の子は
よろしくないのだと。
理由は南インドの真夏は4,5月。
暑い時期の最初の子育は、子どもによくないから。
ゆえに新婚さんはアーディ月には一時的に
別居するのが慣わしなのだと。
「は? そんなこと本気で信じているのか?」
僧侶は矢継ぎ早に真の理由を述べ立てた。
「確かに我われ僧侶は皆にそのようにせよと指導する。
ただしその理由は、チットライ月に生まれた子の
ホロスコープを見たら一目瞭然。
太陽が牡羊座に位置し、それは同時に最高星位に当たる。
つまり、指導者としての素質を有する魂である。
そんな子どもがブラーミン(僧侶)階層以外から
たくさん生まれたらどうなる? たちまちカースト
というインドの秩序が乱れる
だろう。
だから庶民には別の理由をつけて
バースコントロールさせてきたという訳さ」
庶民であるガイドは初めて理由を知ったようで、唖然としていた。
これがいわゆる権力者の、庶民を操るイロハである。
知らぬが仏だ。
こんなことはいつの世でも日常茶飯事。
インフルエンザのワクチン、原発問題での節電、
政治事情含め一事が万事そうである。
我われ庶民は庶民としての役割があろうから
なにが何でも太陽を最高星位として持って生まれ、
世に君臨しようなどとは思わない。
ただ、間違った情報を鵜呑みにして生きていくのは
ナンだが滑稽でならない。
せめて身に降りかかるものだけでも正しく判断できる
能力を常に磨いておきたいものである。
それにしてもこの僧侶、こんな秘密を庶民に明かしていいのか?
きっと庶民も、こんな古くさい言い伝えを守っている者
など、もはやいないのかもしれない。