あれ、ドライバーは?
「急用が出来たので先に行った」
また車の故障?
「まあ、そんなもんだ」
ナチヤコイルへの参拝を終え、
次なる目的地へと外に出ると車がなかった。
別の車を手配したガイドと向かった先は
すぐそばの、先ほど行ったティルナライユール。
そこにはドライバーが
車の横に澄まし顔で立っていた。
車屋さんでなく
なぜ、寺院にいる?
不思議がっているわたしを見て
ガイドがコトの次第を解説。
寺院内で、やおら仮眠した
ガイドとドライバー。
ガイドはわたしの仕事に付き合い、
ドライバーは外に駐車してある愛車を見に。
睡眠に邪魔と、携帯のスイッチを切っていた
ガイドにつながらないと、外に出ていた
ドライバーがわたしの携帯に電話をしてきた。
なんだか焦っている様子。
ガイドに電話をかわった。
現地語で話しているので内容は不明だった。
起こったことはこれ。
そのとき、外に出たドライバーは
少しでも車を日陰に停車しようと移動させた。
その瞬間。
もの凄いうめき声が・・・
それは車の
タイヤの陰に涼んでいたヤギの鳴き声。
そう。
知らずに車を動かしたドライバーは
ヤギをひいてしまっていた。
これを観た近くの住人に囲まれドライバーは
窮地に立たされ、非難轟々の嵐に遭う。
ドライバーが助けを求めたガイドがひと言。
「土星神に懺悔してきなさい」
ということで、近くにある生死を司る土星神
ティルナライユールにて祈りを捧げていたというわけ。
インドのヤギというと、キリスト教でいう羊だ。
つまり屠(ほふ)られる対象。
未だにカーリー女神信仰の寺院ではヤギを供養する。
数年前コルカタの寺院で実際その瞬間を目にした。
インドの儀式では、ライム(レモン)がよく施される。
ライムはヤギ(羊)に見立てられる。
つまり、時代が変わりやり方こそ変わったが
ヤギ(goat)が生贄にされる習慣は変わらない。
scapegoat スケープゴート 身代わり
キリスト教では「ヤギ」は悪魔的要素で
表現されているが、実はその逆が真かも。
ドライバーは運転にかけては天下一品だが
コト寺院参拝となると、いつも「疲れる」とか
言い訳して、我われには付き合わない。
その天罰が生じたのだ。
長時間、聖なる空間で清められた彼に
供物としてヤギが屠られ、車ごと
土星神にあいさつに行く流れとなった。
フリーミール料理長の逮捕劇に始まり
ガルーダ神の祝福話を受け、締めくくりは
ドライバーまで浄化されるという展開。
こうやって、波動は元に戻され
人は生かされていくものである。
善きコトをする=好ましい結果がくるとは限らない。
ただ、最終的には「望ましい」結果となるのだ。
それは
嵐が去ったあとの清々しい状態と同じだ。
さて、これでもかという禊ぎを終え
この流れで、春分の儀式へと向かおうかと。
果たして何が待っていることやら。
つづく・・・
バランスされるということ その9 ギビング・ハンズ Official Blog/ウェブリブログ
バランスされるということ その9 ギビング・ハンズ Official Blog/ウェブリブログ