区別という名の『分離』 番外編

過去、なんらかの苦しみを経験すると、そこに
意識が固定されて、身動きとれなくなってしまうもの。
しかし、どんな苦しみも、やがては去っていく。
これは喜びも同じだと。
ただ、苦しみが去る時、その苦痛は悲劇として
あとに永久の印を残し、喜びや栄光は
役に立たない思い出を残す。
つまり、両者に釘付けされていること自体が、
悲劇』と言わざるを得ない。
四季が移り変わるように、すべては
そうあるべき理由をもって過ぎ去っていくだけである。
だから苦痛という悲劇などないし、そこに恐怖を
感じることは、『冬』が来ることを怖れているようなもの。
あるのは、なぜそうなったかわかる部分
理由が理解できないものという『事象』だけである。
わかる部分は永続的な学びにし、不可解なものは
一時的に経験する苦痛であり、理解できるまでその
体験がカタチを変えて繰り返されるだけである。
この両者を区別して捉えていくと理解が深まり、
一時的に体験する苦痛が、徐々に少なくなる。
ということは、恐怖で身動きとれないでいると、
体験も少なく、それだけ人生学校の卒業が
遅くなるということだ。
また恐怖は、避けられないことが始まるまでしか、
続かない。その先は、恐怖の意味は失ってしまう。
なぜなら、それどころではなくなるからだ。
あとは、正しい道を進んでいると言い聞かせるだけだ。
そう、すべてが『正しい』。その魂にとっては。
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4ヶ月ぶりにハンク氏のカウンセリングセンターに寄った。
わたしの代わりに出版プロジェクトを積極的に進めて
くれている才女、ニーラとも会った。
ここのキッズたち(患者をこう呼ぶ)は、たいてい親から
受けた傷のトラウマから抜け出せず、苦痛に満ちた人生
送ってきた若者だ。
その苦しみの因が理解できずに、のた打ち回っている。
それをここでは理解につなげ、キッズたちがわかるまで
何度もやり取りを続け、彼らを社会に送り返している。
本来、苦しみなどない、すべて学びがあるだけだ。
しかし、自分で作り上げた苦痛という悲劇は起こる。
だからそのまま受け入れ、その恐怖を小脇に抱え
苦痛を行動に転換し、前に進むしかない。
苦痛をともなう悲劇は、ではなくて『挑戦』であると
わかるまで。
でないと過去の怒りによって、未来の行動が
制限されてしまうから。
ハンク氏は、それをここで教えている。
50%出来上がった本のコンテンツを眺めながら、
次回の渡印時には、本のデザインや販売ルート
についての話ができるといいね、と約束して別れた。