欲求

欲求
叶えられれば楽しいが、そうでなければ苦しい。
小さな欲求不満を大きな快楽によって覆う
しかしそれは一時の楽しみ
一夜明けたら現実世界が待ち
「虚しさ」が倍増する。
こんな思いをするなら、
欲求なんて持たなければいい。
いや、この世からなくなればいいとさえ思う。
しかしそれも一時の我慢、妄想である。
ひとに五感があるかぎり、いつでもそれは生起する。
紛らわしても我慢しても、逃れられないクセモノ。
であれば共存するしかない。
欲求が満たされないとき、打ちひしがれるのではなく
受容の心で「敗北」を受け入れる。
しかしこれこそ一時の慰み
ふと我に返ると惨めな自分がそこにいる。
誤魔化しも逃避もせず、直視したのに、だ。
3つの道に心の平安はない。
いつも焦躁感にかられ、もがき苦しむ。
  なぜか?
3つの道の共通点。
欲求は叶えられてナンボ、そうでなければ価値がない。
という概念。
これではどんな対処を施しても心地が悪い。
そこで第4の道の登場。
欲求があってもなくても流れのまま。
叶っても叶わなくても在るがまま。
一喜一憂などの感情に惑わされず、
状態そのものを観察する。

この世は二元。相違(あいたが)わず。
善い悪いは、ない。
欲求が叶った途端に苦しみに転じ、
叶わないことが楽に通ずることもある。
これが所謂、「人間万事塞翁が馬」である。
すべては無常、移り行くもの。
明日は3.11。
震災から早一年。
「欲求」が大きく揺さぶられた年。
この教訓を明日へ生かすために、祈りを捧げたい。

人との関係性

この世を去る準備を始めた母がわたしの将来を憂えて
孫(姉の子)に頼み込む。
「将来はこの子(わたしのこと)の老後看てね」
即答する姪っ子
「いやだぁ。いいじゃん、
インドに子どもいっぱいいるんだから」
憂えをぬぐえず うな垂れる母。
即座にわたしに向かって言い放つ。
「おまえも、自分の子のひとりくらい
生んでおけばよかったのに・・・」
あ~ なんて短絡的思考。
自分が現在、子に老後の面倒を看てもらっているからと、
子どもというのはそういうもの、
という方程式しか頭にないのか。
  いい! 今どき子がいたって孤独死する時代。
  子どもがいる、いないが老後に大きく作用する
  とは限らない。
  それに、仮にわたしが子を儲けたとして
  「わたし」みたいなとんでもない子が
  生まれたら、それこそどうするぅ!?

「なんで? いいじゃな~い♪」
嬉しそうに答える母。
  へ? そう・・・
意外な返答に拍子抜けした。
てっきり
「そうよね・・・」という言葉を予測した。
わたし自身、基本的に自分の存在、
生き方を大いに気に入っている。
しかし、いざ自分のような人物と「わたしが」
付き合うとなったら、勘弁してもらいたい。
移り気で自分勝手。
好きなことしかしない。
思い立ったら向こう見ずな行動をとる魂に
自由を左右されるなんて真っ平ゴメンだ。
だから、「わたし」みたいな子を育てるなんて
想像しただけで・・・ となる。
しかし、そんなわたしを母は育てた。
その上で「いいじゃない」とコメントする。
この問答でわかったこと。
この世には鍵と鍵穴、世話される者とする者がいる。
陽が結びつけばしっくりいくというもの
しかし鍵と鍵、世話してほしい者同士は反発し、
疲れる関係になるだけ。
その原理で、自分自身を観察すると
嫌になる傾向になる。
わたしが自分という魂と一体「ひとつ」で付き合うには
何の問題もない。
だが、同じ性質の魂が同時に存在し「ふたつ」になると
途端に「嫌」になる。
   なぜか。
それは、自分の「好ましくない」部分
に焦点が当たり、「好ましい」部分は隠されている
から。
わたしでいえば
決断力があり
いつもわくわくごとを探し
自由気ままに生きている。
小さなことにはこだわらず、大局的に
モノゴトを判断するらしい。
なんていう、「好ましい」点をみると、
こんなヤツと一緒にいたら楽しいだろうな、とも思える。
なのに、もし「わたし」を育てるとしたら、で浮かぶのは
「好ましくない」部分。
人は喜びを得るより、痛みや苦しみを避けるほうに
意識は集中するもの。

だから
「自由を奪われる」=「拒絶」という図式になる。
しかし母は「自由を人に捧げたい」ヒト。
これで鍵と鍵穴。うまくいく。
きっとわたしが、生まれる前に
今際(いまわ)の淵からこんな癖の魂を
「母」として選んだのだろうと思われる。
自分を観察したとき「好ましくない」部分に
フォーカスするのは、認めたくない部分。
人は、痛手を被る可能性のものを避ける本能がある。
その保身から、マイナスを除去しようとする。
しかし
この世に存在する魂は千差万別。
自身がマイナスだと思っていることを「好ましい」と
感じるモノもいれば、逆もしかりである。
「好ましい」「好ましくない」というのは
自分が勝手に作り上げた「いわゆる現実」である。
他の人にとっての「現実」はまた違う。
だからすべてを丸ごと受け入れること。
するとありのままの自分が、自身にとって
好ましくはないかもしれないが、他には好ましいかもしれない。
結果、自身には「望ましくない」状態でも
すべてが「好ましい」存在になる

姪っ子がわたしの老後を看てくれなくとも
それをしたいと思うモノが現れるかもしれぬ。
そもそも「便利」「都合がいい」「世話になったから」
「義務」
などという大義名分で、関係性を築くことは
わたしの人生にはない。
だから他にもそんな関係性を望まない。
そんな自分の「Be」らしくない時間ほど
ムダなことはない

その瞬間、お互いしたいと思ったコトをするだけ。
他人との関係性を客観視するのは、自身を知る最適な手段。
憂うのは当たり前である。
なぜなら自分のことを一番知らないのは
ほかならぬ自分自身なのだから。
他人との関係性で憂うときは
自身を知るチャンスでもある。
他は自己の投影なのだから。