用意周到に学ぶ

12月5日、渡印。
帰国後、成田で一泊。
そのまま南の島へ飛んで温泉三昧・・・
の予定だったが! 直行便が満席。
しかたない、いったん東京の自宅に戻り出直そう。
翌日、翌々日と空いた便を探す。
 ・・・・ まったくない。
待てよ。
時は12月。
クリスマスシーズン。

予定地はキリスト教文化圏。
もしかしたらこんな時期に、こんな出発1ヵ月切って
フライトチケットを確保しようなんて、浅はかだってか?
12月のフライト席予約カレンダーを開けてみてびっくり。
この月1ヵ月間、まったく席は空いていなかった。
というのも、わたしの予約はマイレージチケット。
つまり、フライト代「無料」で行こうとしている。
航空会社に電話をし、キャンセル待ちの確率を問うた。
「マイレージ席のキャンセルは、ほぼ難しいですが、
通常フライト席であれば若干空きがございます」
    なるほど、マイレージ席には限りがあるのか
そりゃそうだ。
フライトチケット代が跳ね上がるゴールデンシーズンに
マイレージ(無料券)を使うのが賢い方法である。
そんな人たちで機内を埋められたら、航空会社は上がったりだ。
わたしはたまたまその期間しか日程が空いていないから
行こうとしただけ。なにもハイシーズンに高額料金
を払ってまで渡航することはない。
これでわたしの今年の慰安旅行は泡と消え
すっかり意気消沈した。
にしてもこの、直前にならないとコトを決めないクセは、
いったい いつから身についたものなのか。
もともとそんな傾向ではあったが、とくに世界を旅する
ようになってから、殊さらインドに行くように
なってから倍増したように思われる。
こちらがきっちり計画立てても、いざ現地では
どんでん返し、ドタキャン、遅れ、すっぽかし。
これでもかというほど変化球を投げられ、都度、
その場の調整におおわらわすることが続くと
ヒトは学習するものである。
準備にどれだけ時と労力を費やそうとも、
こんなに変化があるなら、インド人同様
状況が確実になる直前に決めたほうが得策だと。

こんなわけで、わたしの直前決断に拍車がかかったということ。
しかして、所が海外ならちょうどいい感覚でも、
日本でとなると話が異なる。
わたしの周囲では用意周到に計画する仲間が多い。
ある予定の何週間も前から細かいことを決める。
大きなこと(行き先、会場、内容など)は押さえておき、
直前にわかっても問題ないもの(集合場所、出発時刻など)
などは、まさに「直前」に決め癖のあるわたしを
周囲はイライラしながら眺める。
両者にあるメリットデメリット
計画組:余裕、ミスが少ない直前変化に弱い
直前組:準備に時間がとられない、変化球に強い予約取れないミスが多い
それぞれだが、
人生計画は両者を組み合わせるのがいい気がする。
大局的なビックマップは計画するが、日々の行動・選択は
直前その都度のほうが柔軟性がある。
細部にまで計画組の思考で行動すると
大局を失うことにもなりかねない。

それにしても、南の島への温泉三昧を逃した痛手は大きい。
わたしの魂は、今後は周囲を見習い、「用意周到さ」
を身に着けようと少しは反省したようだ。

「応じる」努力を。

「応じてますか?」
四国に住む易の先生が、八卦サイコロを
振った後のわたしにいつも問う言葉。
周易を習得するとき、投げかける質問によって
異なる「卦」が表れ、その意味が質問の答えに
なっているかどうかを判断するのが易者の第1ステップ。
そして各六十四卦の象意(意味)を、易神に問うた
内容に照らし合わせて解釈していく必要がある。
うまく解釈できる場合は「応じた」となるが
結びつかない場合は、質問をより具体的にして
再度サイコロを振る。
卦の象意が問いにダイレクトに「答え」るときと
意味深な「応え」方のときがある。

「答え」と「応え」、どう違うのか。
応えるとは「応じる」ということ。
周易、タロット、六壬などの「卜占(ぼくせん)」は
潜在意識下にある質問者の答えを、道具を使って現す占術。
つまり内なるモノを外に応じさせているということ
しかし、それはダイレクトではないよ、と。
なにかの質問に答える場合、直接的表現と
質問の意味を与した応え方がある。
姪っこがまだ独身だったころ、定期的にくるメール。
「きょう、ヒマ?」
たったこれだけ。
わたしの時間配分に「暇」などない。
ただ、自由になる時間ならとれなくもない。
わたしの答え:「暇じゃない」
姪っこの返事:「ふ~ん」もしくは返信なし
わたしの応え:「きょうは忙しいけど、なんか用事?
          明日なら遊んであげるよ」
姪っこの返事:「うん、じゃあ明日行くね」
会話の本筋はなにか、それにどう応えるかが、
人との関係性において重要なファクターである。
とくに女子の会話は読み取れない。
男子はダイレクトな答えを好む傾向にあるので
世の奥方に「夫はまったくわかってない」と
言われてしまうのだろうか。
妻:「となりの奥さんたらね、わたしにこう言うのよ! 酷いでしょ」
夫:「それは君がこうしたからだろ~」

奥方の本音は「そうだね、酷いね」と共感してほしいだけ。
だが、言葉を発する側だって、「応じて」くれそうな
言い方をする必要がある。
鈍い夫をすぐに「ダメ」だと思わず、応じるような問いかけを
する努力があってこそ、双方の益となろう。
易で卦を立てるときは、それが如実に表れるから、
「問い」はいつも慎重に考えて行うことにしている。
夫と子がいる今では、用事がなければ決して
連絡してこなくなった姪っこ。
いったい彼女はなにが言いたいのだろうか、と
思いを巡らすことはなくなったが、なんだかちと淋しい。
その分、易神の読み取りに精を出すことにしようか。

とにかく聞こう!

「なんでこんなに遅いの! このPC」
   へ? いつもこうだが・・・
とうとう使用中のPCがサクサク動かなくなり
買い換えることに。
いままで新PCに乗り換えるとき、他に丸投げで移行作業を
委託していたが、今回、ちょっとだけ一緒に行った。
その筋に詳しいものと疎いものが同時に作業すると
おもしろいことが起こる。
わたしの「当たり前」が、友人の「目が点」になり
友人の「常識」は、わたしの「感動」となる。

ひとりのとき、要らないデータがあって削除しようとすると、
PCが「本当に削除していいのか?」的なことを言ってくる。
すると不安になり「YES」ボタンを押せなくなる。
さらに「これを入れると便利だよ」とも言ってくる。
わからぬわたしは「はい」と素直に受け入れる。
その繰り返しでわたしのPCには要らぬデータが蓄積していく。
それを友人が一つひとつ、要る、要らないと消していく。
都度 表われるPCの「脅しメッセージ」には一切動じず、
淡々と作業していく様は、さながら頼れる保護者のようである。
PCの詳しいシステムなど知らなくとも、ある程度のことは
できるから、今では誰でも使っている電子機器。
しかし、効率よく、また機器にやさしく使っているかというと
まったくもってそうではない。
無智な子どもが大人仕様の機械を使うと壊すように、
あまりにも知らないものがPCを使うことの弊害を痛感。
それは「生き方」にもいえよう。
天からこの世に身体を賦与され、ある程度の環境が整えば
人はなんとか生きていかれる。
ただ、なんとなく親の生き様と、自身の経験でだ。
見よう見まねと勘だけのような「生き方」。
それが限られた人生の中で効率いいのか、
自身にやさしい「やり方」
なのかはまったく不明である。
PCを熟知している方同様、この世のしくみを知り、
その自然法則にあった生き方をしている方が
周りにはたくさんいる。
時間が恐ろしいほど早く過ぎゆく昨今。
なにも手探りで生きなくとも、こんな「しくみ」を
知っている人物にそろそろ聞いてみるのもいいかもしれない。