ガンは夜できる

久しぶりに整体の先生が家にやってきて
おもむろに生アーモンドの粒をテーブルに広げた。
   毎日25粒 摂れ、と。
目的は、ビタミンE 補給のため。
彼は職業柄、健康についての探求には余念がない。
会うたびに発見したさまざまな見解を述べ、去っていく。
今回は何かと思ったら、ガン予防だった。
そして、彼は言う。
   ガンは夜できる、と。
免疫力低下がガンを促進する原動力だといわれている
昨今、免疫力強化に力を入れる傾向にあるが、この
免疫力も、体温36度以上で活性化するのだと。
しかし、睡眠時には平均体温から0.5度下がるので、
36度しかない人は、35度台になる。
となると、いくら免疫力を上げてもその活動にスイッチが
入らないことになる。つまり兵隊さんがお休みしてしまう。
そんな無防備な夜、ガン細胞が増殖するのだと。
   で、だからなんで生アーモンドなの?
整体の先生が2時間もかけて説明してくれたのだが、
はっきりいって、忘れた。
   ・・・・・
ただ、インド滞在時のわたしの常備食がたまたま
アーモンドだったので、スーパーの塩辛いナッツ類より、
こちらのほうが身体によさそうだから、買ってみることにした。
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最近、心身によさそうなものを激しく取り入れている。
家族はもはや呆れ顔で、すぐには耳をかさなくなっている。
かく言うわたしも、時として心が行動に追いつかないことがある。
「なにやってんだ、わたし?」って、まるで人ごとのように、
その行為を眺めている自分がいる。
まだ「納得いかない選択」に戸惑う自分をしばし経験するが、
それを 『善し』 としている。
なぜなら、「勇気の証明」だから。
   勇気は機関車、自信は客車
        自信は後からついてくる~♪

20代の頃、この言葉を呪文のように唱え
なんでも果敢にチャレンジしていた。
“向こう見ず” と言ってしまえばその通りだが、この経験が
今では、直感+経験則となって活かされている気がする。
石炭で動く機関車が、後続する何車両もある客車を
引くには、相当な力が必要だと思われようが、実は
先頭車両の機関車が最初の一両目を引く力さえ
あればよいのだと。
まず、一両目が動き出すと次は、機関車+一両目が
原動力となって二両目を引く。次は機関車+一両目
+二両目で三両目を引く・・・
このように車両の連結をうまく利用し、初めの第一歩
ですべての車両を動かせる仕組みとなっている。
まず第一歩を踏み出したとき、まだ動かぬ車両
(過去の自分)が「おまえ、なにやってるんだ?」
と、同じ場所に留めようとする。
だから、心と行動がハウリングを起こし、自分ではない
何者かが勝手な行動を取っている錯覚に陥る。
今までのほうが安定しているし、それが自分らしい。
その動かぬ得体の知れないメッセージに驚き、戸惑う。
しかし、それが変化にともなう自然現象だと知っておれば
客観的にやり過ごせる。そのまま動きを止めずにいると
当たり前だが車両がどんどん後からついて来る。
気がつくと動かぬ車両が「動く機関車」と化し、それが
自分らしいという、セルフイメージが形成されていく。
この経験から、長い車両をじっくり調べて行動を起こすと
とてつもなく大変な作業に思えるので、全体を把握しつつ
まずは、一両目から引っ張ることにしている。
少し前なら様子をみながら第一歩を踏み出していたが、
時間が早く進んでいる今、「様子をみている」暇はない。
最近は、ダメでも最低限のロスで済むよう、様子をみるための
行動
をとっている。その後、決断すればいいように。
スタートに勇気がいる以上にストップには勇気が必要だ。
しかし、勇気なんてものは 『慣れ』 なので、すぐ身に着く。
この生アーモンド、いつまで続くかわからないが、目の前に
きた情報は外応ととらえるので、とりあえず無心に
食することにした。
フルーティアの生アーモンド
http://www.shibatr.com/shop/almond.html

達成と知性のジレンマ

「おめぇと俺を、足して2で割ればちょうどいいなぁ」
「おめぇ」とは、わたしのこと。
わたしをこう呼び捨てる「俺」とは甥っ子のこと。
    2で割ると、どうなるのか。
『理に依って 無理に進む』 ことになる。
甥いわく「目的地が険しく厳しいほど、馬鹿と利口両方
兼ね備えてねぇと、前へ進めなくなる
」のだと。
  → とある本からの引用らしい・・・
つまり、大変なことほど考え過ぎると進めなくなるが、
考えなさ過ぎて突き進んでも、うまくゆかない。
わたし:『理に依らず 無理に進む』典型
    ~ 考えていて進まないのは 自分らしくない ~
甥っ子:『理に依って 無理に進まない』典型
    ~ 考えずに失敗するのは 自分らしくない ~
という認識の下、わたしは『達成』、甥っ子は『知性
に重きをおいて行動する。
しかし、その基準は常に『自分自身』にある。
だから、ふたりの共通点は「人目は気にしない」ということ。
基準を他(もしくは常識)におく両人の母親たち(わたしの姉
と甥の祖母)は、『理にも依れず 無理にも進めない』典型である。
いい意味では他を尊重し、反面、自分に軸がないためブレやすい。
とかく他の世話を焼く役割りで生きている世の母親たちや
周囲に気配りできる『いい人』たちは、基準を周りに置く
傾向にある。
だから 『ちゃんとしなきゃ』 と、いつも気が張っている。
そして、わたしたちのような自由奔放人に、振りまわされる
ことになり、不満が募るばかりである。
自己の基準にかなった行動ができないジレンマと、
他(or 常識)の基準にかなった行動ができないジレンマ
では、当然、後者のほうが疲れ度合いは増す。
ストレスを軽減するには、前者にシフトするしかない。
チャリティ活動やボランティアのような、他のための生き方は、
一見、母性的な寛容さを感じるが、もしそれが他を軸とした
活動なら、重心軸が消えたとき、バランスを失うことになる。
 → あんなにしてやったのに 
自分を軸とした他へのアプローチなら、たとえそれが消えた
としても、伸ばした手足を引っ込めればいいだけ。
   → したいから、してるだけ
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だから常に 自分に問いたい。
     「いったい、何がしたいのか?」
人生いつも思いどおりなんて、あり得ない。 しかし、
風向きは変えられないが、風向きに自分を合わせることはできるもの。
ヘタに抵抗せず、立てたアンテナをチューニングしながら
今、できることは何かを理解するのが、人生うまく乗り切るコツであろう。
20も離れた子ども(甥っ子)に 『馬鹿』 呼ばわりされないよう、
今後は少し「理に依って」生きてみようかと。
風向きを知るには占星術も役立つが、
     もっと内なる声に耳をかたむけて・・・

冬便 速報

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秋、収穫されたお父さんトコのもち米が、お母さんの手で
蒸され、伸され、切られていく。
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             つきたて餅
本日、『野菜Bos for Tow』 冬便が発送されました。
採れたての新米に泥つきの野菜たち。
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            ファミリーセット
そこに、「お母さんの手作りお餅」
「かっとくん家の手作り信州味噌」が添えられる。
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            全体重で伸される餅
すべてが天然素材でできた保存料なしのシロモノだから
届けられた方、管理は自己責任でお願いしますね。
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            野菜 Box for Two
明日、できたてをお楽しみください。
お米年間登録便は、来月12月から二ヶ月ごとに1年間発送いたします。
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           若者と作ったものをカタチに

二重人格 【時間の構造化】

わたしは二重人格である。
あくまでも、インドにいるときと日本とで。
インド滞在時には自己主張の固まりと化す。
でなければ、いつまでたっても順番は回ってこないし
予約してある席だって取られてしまうから。
喜怒哀楽も子どものように表現する。
でなければ、誰も 『お心お察し』 いたしてなんかくれない。
KY(空気読め)なんて言葉、日本だから通じるもの。
『空気』 は読むのではなく、積極的に伝えなければ流れていくだけ
「誰もわかっちゃくれない」と嘆くことはナンセンス。
「ちゃんと言わないあんたが悪い」となる。
    こう書いているだけで疲れそう・・・
聞いてるだけだとかなりのパワーが必要と思われようが、
なんと、こんな生き方のほうがかえって元気になる。
    なぜか。
精神的ストレスが少ないから。ムカついたり、ビックリの連続
だが、その処世術を身につけたら、要は子ども時代の生き方に
もどればいいだけ

その後、日本に帰国したら人格を変容する必要がある。
でないと、まわりが混乱するから。
自己主張を50%に落とし、クールに振る舞う。
 → え~ あれで落としてるの? ってか。
すると、自分らしくないから、自然とひとりでいる
ことが多くなる。
これが、交流分析でいう「時間の構造化」のしくみである。
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バンガロールのカウンセリング・センターで積極的に取り入れている
のが交流分析である。そこにある【時間の構造化】という概念。
人が人生でどの段階の時間を多く過ごしているのかを推し測るもの。
この6段階にいく途中で障害あるものが、ここのカウンセリング
で矯正されていく。
人とのかかわりの薄い順から並べると
1:ひとりで過ごす(ストロークがない):引きこもり
2:あいさつ(表面的なつきあい):儀式
3:雑談(暇つぶし):非生産的活動
4:仕事や目標達成の活動:生産的活動
5:ゲーム(嫌な結末感情を引き起こす心理的ゲーム):ゆがんだ関係性
6:親密な心の交流(家族、親友などと過ごす):建設的な関係

ここでいうストロークとは、テニスの打ち合いのように打てば返ってくる
【刺激】のこと。ゲームとは、いつも繰り返してしまう行動パターン(癖)のこと。
例えば、夫に行動を制限されている妻が、友人に漏らすグチのようなもの。
しかし、この妻は好きでそうされていることに気づかない。だから友人が
どんなにアドバイスしても「はい。でもね、こうだから」と決してその
パターン(癖)をやめようとしない。
なぜなら、そうされることによるメリット(安全だ。自分では何も考え
なくていい)が大きいから。もちろんデメリットもある。だから友人に
グチるという【ゲーム】を繰り返す。
自分の病気を延々(嬉々)と語る人たちのようなもの。
病気は苦しい【デメリット】、でも大事にされる【メリット】
というサンドイッチを楽しむ。
1:引きこもりのここでの定義は、家の中に閉じこもっていること
だけを指すわけではない。会社にいてもにぎやかな外にいても、
ひとりで食事をしたり、買い物しているときなど、他人との
ストロークがないことも含まれる。
2:あいさつは、儀式的とはいえ、とても重要なステップである。
引きこもりが【0】だとしたら、あいさつは【1】である。
どんなものでも、止まっているものを動かすには相当なパワーが必要だ。
車の発進時に多くのガソリンが使われるように。
3:雑談、4:目標への活動と進むほど、人との関わりに濃さが増す。
が、あくまでも表面的である。このあとのステップとして、スムーズに
6:親密な交流に進めばいいのだが、先ほど述べた5:ゲームが立ち
はだかることが少なくない。
だれしもが深い交流(【愛】と呼んでもいい)を求めるもの。
ゲームも一種の親密な交流だが、最終的には不完全燃焼となり、
なかなか6に行けないジレンマがある。
【KY】などという言葉が定着するほど、人の気持ちがわからぬ
ものが多くなったことも問題だが、心が繊細な人が増えたともいえる。
「人の気持ちがわからぬ」のも、核家族や1人っ子で、
人との交流が薄い中で育てば、ムリもないこと。
すると、どうしても時間の構造では薄い傾向になってしまう。
これが日本で問題とされる、ほんとうの「引きこもり」に
発展していくのだろうか。
薄い関係性が「not ok」で濃いのが「ok」なのではない。
インドのヨーギーはひとりが大好きである。
この構造化を理解し、自然に過ごしているかどうかが重要で、
「1:ひとりで過ごす」時間帯が多いなか、刺激を求めて
本来の人との交流で刺激しあうのではなく、ゆがんだ
享楽(ゲームやTV、無駄なチャットなど)に耽っている
としたなら、そこに障害が生じる可能性
があると、
知っておくこと。
でないと一見、ひとり上手に見えても「ひとり遊び」
「モノ依存遊び」の区別がつかなくなるから。
前者はなにもなくても安定。後者は依存するモノがなく
なると不安定になる。
インドのように極端でなくてもいいが、日本でももっと
気楽に自己主張できる社会になったら、きっとわたしの
二重人格も、改善されると思うのだが・・・・・・

変化球のかわし方

「結婚式が、12月に延期になりました」
・・・・・
突然、インドから伝えられた知らせに
いつものこととはいえ、返す言葉を失った。
ギビング・ハンズでは、恵まれない子どもたちが成長した
あとの結婚支援も行なっている。
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個別の支援ではなく、集団結婚式が年一回行なわれる。
それが11月22日の予定だった。
9月に知らされた予定は16日。その後変更されて22日に。
そのつもりで、11月14日から渡印する手はずだった。
航空券は一ヶ月前から押さえていた。
代理店には支払いを済ませ、発券待ちで延期の知らせだ。
電話の向こうで、スタッフが恐縮している。
怒ることもできず、ただ落胆するしかなかった。
このプロジェクトを主催しているところは、外国と交流するのが
初めてだと。こちらの基準を推し量ることに、慣れてない。
5年付き合いのあるADFでさえ、ようやくこちらとの対応に
慣れてきたところだ。初めてのところなど、ましていわんや。
そんなとき日本のある大手会社の就労時間に関する
裁判記事を目にした。 事件は7年前のこと。
何人かの社員が労働時間内に着替えを行った(10分前後)
ことで、就業規則違反で賃金カットされたと。
社員側は「作業前の着替え時間も労働時間に含まれるべき」と
主張し、「賃金カットも不当だ」として裁判を起こし最高裁まで
もつれたと。
結果は、着替えの場所は就業規則で決められているので、それも
労働時間となる。
よって会社側はカットされた賃金を支払うことになったと。

日本という国では、10分のことで最高裁までもつれる大ごとになる。
インドでは、飛行機で移動する予定ですら、直前に
ドタキャンされる国なのだと。
「信じなれない!」を連発していた10年前。両国を行き来する
うち、頭の切り替えが、だいぶ訓練されたようである。
ようやくわたしも、インド流に慣らされてきたようだ。
要は、「そんなもの」 だと相手を理解するしかない。
結婚式は12月13日(日)
渡印は10日の予定
ご支援くださった皆さまには、来月ご報告させていただきます。