「ありがとう」の真意

数年前、インドのナチュロパティ病院で
10日間、入院しながら治療を受けた。
50人ほどの入院患者と毎日顔を合わせた
トリートメントという名の裸の付き合い。
わたしだけが外国人。
セラピストの言葉がまったくわからない。
運よく
英語のわかる患者が通訳してくれた。
都度、「ありがとう」と 礼を添える。
数日後、いつものようにお礼を言うと
   Don’t say THANK YOU!
     We are friend.

「友だちなんだから、礼は不要だ」と。
そう言われて戸惑う わたし。
まず、【友だち】という概念。
確かに10日ほど寝食を共にし
【知り合い】にはなった。
それはイコール【友だち】ではない。
だから、やはり何かしてもらったら
「ありがとう」と伝える。
◆◇◆◇
数十年前、母が大病をし、
わたしが付きっ切りで看病した。
生死を彷徨いながらも
なんとか生還した。
その後、わたしがどんな難題を母にぶつけても
「あのとき世話になったから」
と引き受ける母。
その言葉を聞くたびの違和感。
「娘なんだから、看病するのが当たり前」
    水くさいなぁ
と。
つまり、近しければ近しい関係ほど、
「ありがとう」がよそよそしく、
他人行儀に聴こえる。

「水くさい」とは
水分が多くて味が薄い。
水っぽくて「味気ない」「まずい」ことを
「水くさい」ということから比喩的に
人にも使われるようになったと。
「水に流す」もそうだが、
に関することは「感情」絡みが少なくない。
まさに、水がお湯に沸騰するまでのように
親しき関係という認知温度差
各人・各国あるということ。
昨今は、いつでも、どこでも
「ありがとう」を伝えて幸せに、という時代。
しかして
「コミュニティ」や「つながり」が
しっかり残る地域での【ありがとう】は、
ともすると関係性を希薄にするやもしれない。

小学校に行くと人間関係で疲れてくる子どもたち。
気くばりが大変だとも聞く。
なんでもいい合い、喧嘩し合った友情は
もう、遠い昔の話になっていくようだ。