ギビングハンズとは なぜどうして

◆ この活動は、どのようにして始まったのか?

ドンドンドンドン「マダム、大丈夫か? 何も問題はないか!」

南インドにあるホテルに滞在中、朝8時40分過ぎ、激しく叩くドアノックの音に何ごとかと飛び起きた。 なぜ「大丈夫か?」なのか見当もつかないまま、とりあえず「OK」だと答えた。 前日からたて続けに起こっているハプニングが、朝まで引きずっているのかと溜め息をつき、 朝10時の約束にはまだ早かったが、出かける支度をはじめた。

まさかその後に、未曾有の大災害が目の前で起こっていたことを知るとは、思ってもみなかった。

この日は忘れもしない2004年12月26日『スマトラ沖大地震』による津波被害が、 宿泊先のチェンナイ市近郊の海岸にも及んでいた。


地震発生7時59分、津波直撃8時35分。その直後、ホテルのスタッフによる宿泊客の安全確認が行われたようだった。

しかし、そのときはホテル側からは詳しい説明はなく、、ただ身の安全だけを確認された。だから、なんだか“変わったホテル”という印象しかなかった。


前日わたしはインドの南端からタクシーでチェンナイ入りしていた。 普段なら車で9時間ほどの道のりだが、その日は至るところで車の事故が多発していて、 到着まで12時間以上かかった。挙句の果てに、乗ったタクシーまでもがエンジントラブルを起こし、 途中で乗り捨てるハメに。しかたなく、ヒッチハイクしてチェンナイ市内までたどり着いた。



こんな経験は初めてだった。何だかいつもと違う。

まるで満月か何かの影響で人や動物の気が騒いでいるかのようだった。
しかし、それは“月のせい”でも何でもなく、きっとこの大地震の前ぶれだったであろうと、あとから思った。


大惨事がすぐそこで起っていることを伝えるニュースがラジオから流れてきた。「そこ」とは まさに、走っている5分先の海岸だった。目と鼻の先で、無数の人々が被害に遭っていることを知った。急遽ホテルに帰るのをやめ、海岸に向かった。

すると海岸に続く道路はすでに警察による通行規制がなされ、それ以上車で進むことは不可能だった。
歩いて行こうかと思ったが、まわりは道行く人々の波でごった返していた。 その喧騒とした人混みの中に入っていく勇気はなかった。

ホテルに戻ってからつけたテレビは、どのチャンネルもこの『津波』のことで騒然としていた。 数分ごとに増え続ける死傷者の数、各国の国民の安否を知らせるアナウンスメント、 被災者たちの生の声と報道陣たちの叫び声が、リアルタイムで流れてきた。


はじめて『コト』の重大さを知った。さぞかし日本の家族はわたしの安否を心配していることだろう。国際電話を入れてみた。しかし、海の向こうにはその情報がまだ伝わっていないようだった。
あとで知るであろうから、詳しい説明はせず、「大丈夫だから」とだけ伝えた。


案の定その翌朝、時差などお構いなしに日本の友人から「安否コール」が殺到したのは言うまでもない。

わずか数キロ先での出来事だったが、直接の被害がないゆえ、報道番組を眺めている限り、日本にいながら見ているような感覚だった。



つまり予定通りだったら、26日は海岸沿いの道路を車で走っていたことになる。被害にこそあわなかったであろうが、 津波到着後の海岸沿いなど、インフラの破壊や電話回線のパンクにと、それこそ予定通りに日本に戻れなかった可能性は高い。

あれから歳月がたち、南インドの海岸沿いに行くたび、津波の傷跡が今でも残されている
と同時に、未だにそのときのダメージと闘いながら復興作業に勤しむ地元民や、 協力隊のボランティアたちを見る。

このような自然災害被災地は世界中たくさんある。ここ近年では日本各地でも起こっている。
ただ人は、いや特にわたしは、どうしても自分の身近で起こった印象深い出来事に意識が集中してしまう。

 

【津波被災者の塔 12月26日 2004年】


今後も南インドに行く限り、この問題に直面するだろう。見てみぬふりはできない。
いや、それ以前にインドという、とてつもない格差社会のある国に足を踏み入れてしまった以上、 後戻りはできない。
ここでの貧困層の暮らしぶりほど過酷なものはないことを、直視せねばなるまい。


とはいえ、インド人の上流層はとてつもなく裕福で、日本人の比ではないことも事実である。
この大きく二極化されたインドという大国の前で、しばし考え込んでしまった。


『いったいわたしに何ができるのだろうか・・・』

これが、この日を境に自問自答してきた課題となった。

 


それからは機会があれば孤児院や貧しい学校を訪ね歩き、できる範囲の寄付と日本で使われなくなった衣類や 文具を集めて持って行くことを繰り返してきた。するといつの間にか『自分にもやらせてほしい』 という声が集まってきたのである。

わたしは仕事上インドへ年、数回訪れる。
そんなわたしにできることは、このように声をあげた方々の行為を『正当に活かせる場』をつくることだと認識した。

なぜならば、直接現地の施設を訪れたからこそ見えたのだが、 他からの寄付で成り立っている施設だからといって、必ずしもこちらの意図している用途で支援金が 使われているわけではないところが少なくないようだ。また支援金が十分活かされているようでも、 子どもたちがそのことに満足していない様子も見受けられた。ひどいところだと、 寄付という名の下に人身売買まがいの行為まで存在していると聞く。


慈善を逆手にとる卑劣な行為を防ぐ法律が、現在ネパールにはできてしまったほど、 悲しい現実がそこにはある。

聖と邪は常に表裏一体であると言われている。ボランティアの顔をした盗っ人、里親を名乗る人買い、 慈善家を装う搾取者、と数え上げたらキリがない。


しかもそれらは表沙汰にでもならない限り、調べようがないグレーゾーンである。
であれば自分の目で確かめ、それが活かされているかどうかを確認する活動が今のわたしにできることではないかと。

大きな活動規模ではないからこそできる、きめ細かい“はじめから終わりまで”の活動をしようと。
十数年前に行っていた支援者と現地の子どもが直接交流できる“チャイルド・サポーティング制度” から取り組むことにした。

この制度を通じた子どもたちへの教育支援が、地域を変え、 貧困からの脱却を促し、次世代の子どもたちに人間として尊厳ある生活と教育を提供できる環境作りへと つながればいいなと思っている。わたし自身が現場にいて、すぐ手出しできることではないから、 まずそんなシステムを取り入れている施設を探し、サポートしていくことからはじめてみた。

その間、訪れた施設は数知れず。その中で応援したいと思う施設と協力関係を形成していった。
日本にいる支援者には、どのような活動を、どこで、どのような人々と行っているかの詳細を伝え、 今日まで一緒に歩んできた経緯がある。

 

こうしてようやく、2007年3月、内閣府の認証を受け、 特定非営利活動法人 ギビング・ハンズが誕生した。

今後は国内外を問わず、必要とされるすべての人々に“何ができるか”という思いを、しっかりとした “形”に変えていけるよう努力したい。

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