願望成就
ギブ&テイク、因果応報
「原因と結果の法則」という本にあるように、善き行いが善き果報をもたらすという因果律。善き行い(施し)が善き結果(願望成就)につながるという捉え方です。
厄祓い
「替わり目」という不安定期をうまく乗り越える手段
人生には多くの分岐点があります。その分岐点、替わり目には万人共通で認識されるもの(季節、満月、冬至、月食など)と、個人的なもの(誕生日、結婚式など)があります。
世界では古今東西から「替わり目」には儀式が執り行われます。
わが国、日本にある祭事や、個人の祝い事には「振る舞い」(施し)が付きものです。これは古くから伝わる強力な『祓い』なのです。
祓うとは、払うということ、つまり「支払い」です。財を差し出す行為、すなわち宗教観でみる布施や喜捨は「贖(あがな)い」として、無意識で過去に犯してしまった罪を清める行為です。
一般的にいうと、もっとも簡単なお祓いは「ヒトに奢(おご)る」ということ。
そして、だれかに食事をご馳走する(フリーミール)という行為は「祓い」のほかにもうひとつの一面があります。それは
「己の厄を他者の福に転じる行為」となり、すなわち「福と厄は表裏一体」だというのです。なぜか。
凶を吉に変える方法
新築時の上棟式で、屋根からお餅(紅白)やお菓子、さらには小銭を四方に撒く「散餅銭(さんぺいせん)の儀」という災いを祓うための儀式があります。
この振る舞いは、古家の磁場から新しき家の狭間に入り込むかもしれぬ「厄災」を細かく分けて投げ捨てる行為です。
新築完成前後で、家主が亡くなるケースがままありますが、これは新築(天徳を使う)の対価として「大切な主」を失う反作用とも考えられます。そのトリガーとなる「厄」を十分祓い落とし、さらには新築で減じた「天徳」を補うため、他者への「振る舞い」を積極的に行うというものです。
そして注目すべきは、「振る舞われる側」にとって、受け取る「厄」が「福」に転ずるというパラドックスです。
「厄」のやり取りが、なぜ「福」となるのか?
まず、その時点でのあなたが、運気の替わり目の時期なのか否かを判断します。
境目にはない、安定しているトキ、モノ、ヒトたちに、小分けした「厄」を手渡しても、それは大海に泥水を一滴たらすようなもの、痛くも痒くもありません。
それより受ける側は
「他者の【負債】(厄)を引き受け、軽くしてあげた」
という積徳となり、すなわちそれが「福」につながります。
これが「己の厄(負債)を他者の福(積徳)に転ずる」というカラクリです。
どうでしょう。「な・る・ほ・ど」と、ご納得いただけましたか?
この逆転法則を知ったとき、愕然としたものです。
それまでのわたしは無制限に「もらえるものは、何でももらえ」的な生き方をしてきましたし、よかれと思い、誰かれ構わずモノをあげていました。その行為はもしかすると悪循環だったかもしれないと、過去が走馬灯のように蘇ります。
これを逆の視点からいうと、ヒトからなにかを「もらう」という行為は、ほどほどにしないと「厄」が積み重なり、「あげる」行為もヒトをみてしないと、かえって相手に迷惑をかけるかもしれないということです。
「もらう」行為自体がイケナイわけではありません。これからも「いただきもの」は大いにもらい続けましょう。「あげる」ことも結構です。ただ、それにはコツとルールがあるのでそこを怠りなく、ということです。
では、なぜそもそも「境目」や「替わり目」にいるトキ、モノ、ヒトに厄災が降りかかりやすいのか、その厄とどう折り合いをつけたらいいのでしょうか。
あるお坊さんの話
積徳で不幸を避けた別の例をお伝えしたいと思います。わたしの知人に、10年間ほど高野山の奥の院で住職をしていた僧侶がいます。
彼はいつもこう言います。
「運気を変えるには、小乗仏教の坊さんに食事を施すこと」。
この僧侶は若い頃、台湾で東洋占術を学んでいます。本格的な大陸の術ゆえ、日本の迷信まがいの占いを軽くみていました。
日本流である「厄年」など信じていなかった当時の僧侶は、勤務地である高野山で扱っている「厄除け祈祷」には、まったく無関心でした。
僧侶は奥の院で、法要に訪れる檀家の受付担当をしていました。そこは先祖供養や祈祷を願い出る場。供養には先祖の没年月日、享年が記されます。
あるときふと、若くして亡くなられる故人の年齢に共通するものがあると気づきます。どうやらそれは『厄年』に当たるようだと。それからというもの意識して統計をとってみたところ、男女の厄年(前厄と本厄がとくに多い)に相当数の死者が、そうでない年より多いことが判明しました。
この発見で背筋がぞっとした僧侶、その時点では男の厄年25歳を過ぎていました。次は42歳(数え年)の厄年を迎えます。
それからというもの、軽視していた厄除け祈祷もまじめに受け、担当住職にも実態を聞き、悲惨な実例の数々を目の当たりにしました。自身には直接起こらないが身内に起こる厄災など、現実を突きつけられます。
対処法を必死で考え赤十字への寄付や献血など、思いつくあらゆることを試みてみたそうです。しかし、どうもすっきりしません。
そんなとき、大阪における厄除けは、ゼンザイを炊いて周囲に「振る舞う」習慣だと聞き及びます。仏教でも「食」を施すのが最初の功徳とされるので、「それだ!」とひらめいた僧侶。
タイやミャンマーのような小乗仏教の国で、しっかり戒律を守っているお坊さんに施すのが一番ですが、すぐには行けません。身近の高野山で修行している若僧に食を施すことにしました。
効果のほどは目を見張るばかり。それまで暗く重たく圧し掛かっていた陰気が晴れわたり、憑き物が落ちていくかのようだったと語ります。もちろん42歳の厄年をナニゴトもなく過ごせたことは言うまでもありません。
不安定な「替わり目」の時期を知っておくこと
ここでお伝えしたいことは、「厄年=不吉」ということではありません。
その証拠に厄年は同年齢の方に同時にやってくる運気ですが、みなに問題が起こるわけではありません。
まず、年齢だけで占断する運勢は大雑把なもので、中国人と日本人を同じ「アジア人」としてくくるようなものです。同い年でも誕生日や生まれた場所(緯度・経度)は異なりますし出生時刻まで考慮したら、その運勢は千差万別です。
複数の詳細な運気を調べ、どの運気をみても「替わり目」にあたり、さらに弱い運勢の時期が重なった場合、そのこと(否定的できごと)が確定されるようです。
つまり「境目」「替わり目」の時期は、「どっちつかず」状態。何かと変化が激しくなるので、慎重に生きる必要がある、ということをお伝えしたいのです。
逆にその変化の意味と対処法を知っていたなら、その時期を適宜に捉え、佳きテーマに転ずることも可能なのです。俗に悪い時期といわれる「空亡」「天冲殺」「土用」などもすべて同じ概念です。コントロールさえすれば大きく飛躍できるチャンスになります。つまり「魔(邪)」と同時に「真(聖)」も掴めるのですが、残念ながら今は相対的に「魔」が優勢のようです。
このように、不安定時期を乗り越えるひとつの手段が「振る舞い」=祓いなのです。
つまり境目にいるモノ、トキに入りやすい「魔を祓う」行為です。
これが理解できたなら、あとは各自その時期を正確に把握し、うまく「魔」と折り合いをつけるしかありません。
「替わり目」の不安定な時期は「魔」だけに翻弄されるのか?
違います。この宇宙は陰陽バランスで成り立っています。魔とは「魔羅(まら)」の略字でサンスクリット語のマーラmāra(煩悩)のこと。ということは、幻惑の魔と同時にバランスよく存在するのは「神」という真理です。
つまり「魔(邪)」と同時に「真(聖)」も存在しているならば、善も解放され掴めそうです。残念ながら現代は相対的に「魔」が優勢ゆえ、善は隠されてしまっています。
いずれにせよ、善悪どちらにも傾く「境目」から、さまざまなものが出入りするというイメージです。
今まで「善きもの」を蓄積してきた場合は善きものが、「悪しきもの」の場合は悪しきエネルギーがあふれます。そして周囲の環境(現象)は、自己に内在するものが共振・共鳴して顕現したものです。
過去に蓄積してきたものが、替わり目の時期や場で、定期預金にたとえると満期を迎えたカタチとなり、負債が多ければ借金返済期日として、貯金が多ければ満期日として、その果報が報われるということです。
負債は否定的、貯金は肯定的イベントで、各自その時期のテーマに見合った状況が展開されるようです。
具体的に認識される「替わり目」とは、
- 宇宙ベース
- :4つのユガ(26,000年周期の陰陽時間軸)、星座の時代
- 地球ベース
- :年、節気(四立、二分、二至)、日食・月食、惑星移動
- 大地ベース
- :地運(大地にある運気)、家の運気
- 個人の宿命ベース
- :厄年、干支、誕生日、星の運気の替わり目
- 個人の記念日ベース
- :就職記念日、結婚記念日、会社設立記念日
などです。
これら境目に解放される「厄」を分散させるために「フリーミール」などの「振る舞い」を活用します。
現代のようなカリ・ユガ(末法)の時代は「厄」の解放が優位となるので、ここをうまく乗り越えるための「施し」は厳密に行ないたいものです。